上村松園の生涯

著者:
Tom Gurney は美術史を20年以上研究しています。英国サルフォード大学 BSc (Hons)。
日本語版 最終更新:2026年9月25日
メール:tomgurney1@gmail.com / 電話:+44 7429 011000

京都の茶店で絵本を開いた少女が、画学校、博覧会、官展を経て奈良で描き続けるまでをたどります。

上村松園の肖像。撮影年は不明
上村松園の肖像。撮影年月は不明。出典:国立国会図書館。表示用に縮小。 肖像記録

上村松園はどのような生涯を送ったか

上村松園(一八七五―一九四九)は、京都の茶店で絵本を開いていた少女から、近代日本画の展覧会制度を代表する画家となった。人物を描き続けたという一行だけでは、その間に行った仕事は見えない。画学校と私塾を行き来し、古画や服飾を調べ、博覧会と官展に出品し、家業の廃業後は絵によって生活を立てた。息子を育て、母を見送り、戦時下には公的な役割を引き受け、京都を離れた後も制作した。松園の「美人画」は、こうした変化する社会の中で考え、作られ、見られた。 [1] [2]

生涯をたどる資料にも種類がある。本人の随筆は、幼いころに何を見たと記憶したかを教えてくれるが、何十年も前の出来事を同時代に記録した日記ではない。所蔵館の作品記録は制作年や寸法、出品歴を確かめる助けになるが、家庭での感情までは語らない。後世の研究は作品の社会的意味を考えるが、解釈を松園自身の発言と取り違えることはできない。本稿では、それぞれが答えられる問いを分けて読み、画業と生活を一つの年代の中に置く。 [3] [4]

松園は明治八年(一八七五)四月二十三日、京都の四条御幸町付近で生まれた。本名は津禰(つね)とする美術館資料が多い。国立国会図書館には常子(つねこ)の表記もあり、本人も幼いころの呼び名をその字で記している。別人の名ではなく、同じ画家を指す資料上の揺れである。父・上村太平は誕生前に亡くなり、母・仲子が茶を商う家を支えた。松園が後に母の働きを繰り返し書いた理由を、この家庭の状況と切り離すことはできない。 [5] [1] [3]

生涯の要点

  • 生没年1875年4月23日–1949年8月27日
  • 出生地京都
  • 修業鈴木松年・幸野楳嶺・竹内栖鳳
  • 主な活動文展・帝展、京都と奈良

目次

  1. 上村松園はどのような生涯を送ったか
  2. 茶店、絵本、母の許し
  3. 画学校と三人の師
  4. 明治末の展覧会と家庭
  5. 美人画への批評と《焔》
  6. 制度の中で働き、作品を変える
  7. 戦争期の公的役割と日常の絵
  8. 奈良への移転と最後の制作

茶店、絵本、母の許し

松園の随筆「あのころ」によれば、茶店の帳場は幼い彼女にとって絵を描く場所でもあった。母が借りてくる絵本を見て、近所の絵草紙屋で絵を求め、身近な娘の髪形にも目を留めたという。借りた本の中で葛飾北斎の挿絵を楽しみにした記憶は、後の松園を北斎の直接の弟子にする話ではない。印刷された絵を家に持ち込み、見て、写し、また別の人間を観察するという学び方を示している。北斎の記事とつなぐなら、この具体的な接点に限るべきだろう。 [3]

随筆には、白紙や絵を買い与えてくれた母への感謝がある。小学校の後に画学校へ進むことも、仲子が認めたと松園は回想した。ただし、後年の温かな記憶だけで当時の家計を美化すべきではない。茶の商いが続いたからこそ学ぶ時間と道具を得られた一方、職業画家となれば制作と売上の責任が増す。広島県立美術館は家の茶葉店が一九〇三年に閉じたと記し、それを松園が画業により自立した節目と捉えている。自立は精神的な標語ではなく、仕事によって家を支える経済上の変化だった。 [3] [7]

松園が記す母方の昔話には、京都の大火や明治維新前後の商売の移り変わりも出てくる。松園自身が生まれる前の出来事は、母から聞いた話として扱う必要がある。それでも重要なのは、彼女が「古い京都」を変化しない景色として受け取ったわけではないことだ。店で使う品、借りた絵本、家族の記憶を通じて過去の形を知った。後年、古い髪形や衣装を調べて画面に移すときも、それは失われた時代を無造作に再現する作業ではなく、手に入る資料から選び直す作業となった。 [3] [2]

「母が絵を許した」という回想は、女性に絵を学ぶ道が広く開かれていたことを意味しない。むしろ家族の同意と商売の収入が必要だったことを示す。後年の文化勲章を知る読者には、才能が発見されれば道は自然に開けたかのように見えやすい。しかしその時点の松園には、作品を出す場所、教える師、道具を買う費用を一つずつ探す必要があった。茶店にいた仲子の労働を「芸術家の母」という役柄へ縮めず、絵を続けるための実際の条件として記憶したい。 [3] [7]

画学校と三人の師

明治二十年(一八八七)、松園は京都府画学校の北宗画科に入った。人物を描きたい意欲が強く、学校の課程だけでなく教員でもあった鈴木松年の私塾で学んだ。翌一八八八年、松年が画学校を離れると、松園も学校を退いて正式にその門人となる。このころ師から「松園」の号を受けたとされる。「画学校で学んだ後、師についた」という単純な順序ではない。公的な学校と私塾の双方を使い、何を学べるかによって場を移したのである。 [1]

明治二十三年(一八九〇)、十五歳の松園は第三回内国勧業博覧会に《四季美人図》を出し、褒状を得た。絵は英国のアーサー王子、コノート公の手に渡った。ここで確認できるのは、国内の博覧会で評価され、外国の王族が購入したことまでである。現在英国のどこかの公開収蔵品だと推測する根拠はなく、アートプラットフォームジャパンは所蔵先を不明としている。作品が若い画家を広い観衆の前に運んだことと、その後の所在が確かでないことは両立する。 [1]

同じ《四季美人図》という題でも、一八九二年制作の別作品がある。農商務省の依嘱を受け、翌一八九三年のシカゴ万国博覧会の女性館へ送られた絵である。一八九〇年の受賞と王子の購入を、このシカゴ出品作の履歴として書いてはならない。国内博覧会での若手の評価と、海外の女性館へ国の仕事として出品することでは、観客も制度も違った。二つの作品を分けて初めて、松園がどのように制作の場を広げたかが見える。画像を加えるときにも個別の所蔵と使用条件を確かめたい。 [1] [2]

写生帖を持つ上村松園。撮影日・場所は不明
写生帖を持つ上村松園。撮影日・場所は不明. Source: National Diet Library. 作品記録. 表示用に縮小。

松園は一人の師の技法だけで満足しなかった。鈴木の了解を得て、一八九三年に幸野楳嶺の四条派の塾へ入る。一八九五年に楳嶺が亡くなると、その門下の竹内栖鳳に学んだ。アートプラットフォームジャパンは、松年の勢いある表現、楳嶺の柔らかな筆致への適応の難しさ、栖鳳の写生と個性を尊重する教えを区別している。師名を並べるだけでは、松園が三つの異なる要求の間で何を学んだかは分からない。 [1]

三重県立美術館の研究は、松園が過去の絵、物語絵、染織、櫛や髪飾りを調べ、古画の模写も重ねたことを指摘する。髪、袖、帯、姿勢のどれを採るかは、人物の時代や置かれた場面を決める選択である。これらの調査は「昔の雰囲気」に浸るための飾りではない。実物や絵から形を蓄え、目の前の人を写生し、画面で組み合わせるための労働だった。師を次々に替えたことも、既成の京都画壇の様式を受け取るだけでは解けない課題を探した過程として読める。 [2] [1]

この学びを「写生」と「古典」の二者択一にすると、松園の人物像を見誤る。人間の体は生きたモデルから観察できても、描こうとする物語の衣装や風俗は目の前にはない。逆に、古い図像を正確に写すだけでは、人物が今そこで息をしているような姿勢を作れない。彼女は現代の観察と過去の資料を往復する方法を身につけた。三重県立美術館が初期作品の題材と構図の幅を指摘するのも、この複数の方法を使っていたからこそ理解しやすい。後に一人の女性像へ画面を絞ることは、初めから他の形式を知らなかったという意味ではない。 [2]

明治末の展覧会と家庭

京都市京セラ美術館に残る《人生の花》は一八九九年の作品である。婚礼へ向かう若い女性と付き添う人を通し、人生の節目の緊張を描く。これと近い題材の《花ざかり》は、一九〇〇年の日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会で銀賞を得た別作品で、現在の所在は不明とされる。二つを同一視すると、美術館所蔵作に別作品の受賞歴を貼り付けることになる。似た題材を続けて描いた事実こそ、松園が人物の場面を変えながら試したことを教える。 [8] [1] [2]

一九〇〇年のパリ万国博覧会には《母子》という題の絵が出た。後に母の死と結びつけて語られる一九三四年の《母子》とは別の絵である。母子を主題としたことが三四年に初めて起きたかのように書く必要はないし、現在東京国立近代美術館にある一九三四年作をパリ出品作として紹介してもいけない。題名が同じでも、作品の年と来歴を確かめることは、生涯の物語を正しく組み立てる基本になる。 [5] [9]

一九〇二年に息子の上村松篁が生まれた。松篁は後に花鳥画家として知られ、孫の淳之も画家となる。山種美術館は三代の作品を紹介している。確認できる親子関係と生年は書けるが、私生活の相手や戸籍上の事情を資料なしに補う必要はない。翌年の茶店の閉店と合わせて考えると、子を育てながら、絵の注文や展覧会によって生活を支える道を進んだことが具体的になる。一方、すべての女性像を母親としての自画像と解くのも、作品の幅を狭める。 [10] [7] [2]

明治四十年(一九〇七)に第一回文展が開かれると、松園は《長夜》を出品した。京都で名を知られる若手から、全国の画家を集める官展に参加する作家へ、仕事の舞台は広がる。同時に、技巧の確かさを認めながらも、構想の新しさを求める批評にさらされた。女性を美しく描く画は人を集める一方、表面の巧さだけだと軽く見られかねない。松園はその評価の中で、姿だけでなく、人物の内面や場面の時間をどう示すかを考え続けた。 [1] [2]

官展は画家に名声を与えるだけの舞台ではなかった。応募、審査、展示室の分類、新聞や美術雑誌の批評によって、一枚の絵に「京都らしい」「女性らしい」「美人画らしい」といった期待が重なった。松園が人物画を続けたのは、それらの呼び名に無関心だったからではない。物語の人物、婚礼の女性、日常の女性という別の場面で、観客が何を読み取るかを試せたからでもある。ただし、特定の批評の一語が直後の作品を直接生んだと断定するには制作資料が足りない。制度と作品を同じ年代に置き、因果は慎重に考える。 [1] [4]

美人画への批評と《焔》

一九一四年、松園は京都に家を建てた。京都市の歴史的建築物一覧は、後に松篁もそこで制作したことを記す。家は私的な暮らしの場であると同時に、下図、道具、注文制作を支える場所だったはずだが、各部屋の用途やその年の室内の様子まではこの資料から分からない。市のPDFに載る建物の写真はサイトでの商用再使用が確認できていない。現在の写真を「当時の画室」として使うことも避ける。場所の歴史は、見つかった画像を安易に古写真と呼ばずに伝えられる。 [11]

一九一四年の《娘深雪》、翌年の《花がたみ》は、人物の物語や心理に向き合う試みとして位置づけられている。一九一五年の文展には「美人画室」が設けられ、主題の人気と評価の難しさが同時に表れた。松園は一九一六年に文展の永久無鑑査となり、通常の審査を経ずに出品できる立場を得る。しかし制度上の承認は、批評を受けなくなることでも、制作上の問いが終わることでもない。彼女は古典の女性に、飾り物では済まない感情を託す方法を探した。 [1]

その際立った例が、一九一八年の《焔》である。東京国立博物館が所蔵する絹本着色の作品、登録番号A-11098には、『源氏物語』と能「葵上」に連なる六条御息所の嫉妬が描かれる。松園は後年、能楽師の金剛巌に嫉妬の眼について尋ね、絹の裏から眼の部分に金を置いたと書いた。画面の強さは、単に「恐ろしい女性」を選んだことから生じたのではない。物語と舞台を調べ、絹の表裏を使って視線の印象を作った、具体的な制作の結果でもある。 [12] [13]

《焔》、一九一八年
《焔》、一九一八年. Source: Tokyo National Museum, via ColBase. 作品記録. 表示用に縮小。

本人は《焔》を苦しい時期に描き、仕上げた後に気が軽くなったとも回想した。この言葉は制作の経験を知る貴重な証言である。ただし、ここから特定の恋愛事件、病名、人物モデルを断定することはできない。また《焔》後に中央の展覧会で作品が見えにくくなることを、直ちに長い制作停止と読むのも早計である。三重県立美術館は展覧会への不出品と制作活動を区別している。画家の内面を劇的に作り上げるより、同定できる作品と本人の言葉を並べて読む方が、絵の複雑さに近づける。 [14] [2]

《焔》を一生に一度の「異色作」として切り離すのも十分ではない。古典を調べ、能の演者に尋ね、顔や衣の細部で感情を組み立てる方法は、それ以前の資料研究ともつながる。六条御息所という名を知らない人にも、白い顔と視線の強さは届く。物語を知る人には、能における嫉妬と変身の文脈が加わる。二つの読みは同一ではないから、注釈画像では眼の技法を説明しつつ、作品全体の姿勢へ戻れるようにしたい。細部だけを大きく見せて「本当の心理」を断定する展示にはしない。 [12] [13]

《焔》部分:顔と眼
《焔》部分:顔と眼. Source: Tokyo National Museum, via ColBase. 作品記録. ColBase画像を縮小。

《焔》の細部を見る

番号を選び、全図と細部を比べてください。三つの拡大図はすべて同じ東京国立博物館A-11098です。

《焔》の細部を見る123

注釈画像の細部

1

眼

松園は能の泥眼について聞いた後、眼の部分の絹の裏から金を施したと回想している。通常画像だけで層の分析はしない。

眼

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 部分図を表示用に縮小。

2

衣と藤

髪の大きな流れと、衣の藤の細い線を比べる。文様の同定はColBaseによる。

衣と藤

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 部分図を表示用に縮小。

3

蜘蛛の巣

蜘蛛の巣は衣に描かれた文様。心理的意味を一語で決めず、全身像へ戻って読む。

蜘蛛の巣

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 部分図を表示用に縮小。

制度の中で働き、作品を変える

松園は一九二四年に帝展の委員となり、一九三五年には参与となった。審査を免れる出品資格から、展覧会の運営に関わる役割へ進んだのである。しかし役職だけを順番に並べれば、画家が何を作ったかが消えてしまう。一九二六年の《待月》では待つ人物と夜の気配が課題となり、一九三二年の《虹を見る》では二曲一双の屏風に視線と空間を配した。東京国立近代美術館ではなく京都国立近代美術館の所蔵記録にある《虹を見る》を、一幅の掛軸と説明してはならない。 [1] [15] [16]

《虹を見る》(二曲一双)、一九三二年
《虹を見る》(二曲一双)、一九三二年. Source: National Museum of Modern Art, Kyoto / National Art Museums Japan. 作品記録. 表示用に縮小。

母の仲子は一九三四年二月に亡くなった。同年の第十五回帝展に出した《母子》は東京国立近代美術館の作品番号JI0007で、高さ一六八センチメートル、幅一一五・五センチメートルの大作である。文化庁の解説は喪失との関わりを示唆し、松園も後年、母の働きと母子の主題について書いた。しかし「母の死の年に描いた」という事実、「追慕として読める」という解釈、「描かれた二人が仲子と松園の肖像である」という断定は別々である。最後の断定を支える資料は確認できない。パリ出品の一九〇〇年作《母子》とも混同しない。 [9] [18]

一九三六年の《序の舞》については、松園自身が制作の変更を書き残した。松篁の妻・たね子を含む複数のモデルを用い、短い袖から長い袖へ衣装の案を変え、外見の優雅さだけではなく内に収まる心を求めたという。作品をただ「理想の日本女性」と呼ぶと、こうした観察と推敲が消える。完成した姿は一度の写生をそのまま写したものではなく、モデル、衣装、能の動き、画面の重心を選び直したものだった。 [14] [1]

《序の舞》を何枚もの異なる習作から完成へ進んだ制作として見ると、伝記で「モデルは誰か」を尋ねる意味も変わる。たね子が参考になったことは本人の証言で支えられるが、画中の女性をたね子一人の肖像と呼ぶのは別の主張である。袖の長さを変えた判断は、モデルの個人情報より、静止した絵に舞の間合いを作る問題を語る。松園が歴史や能から得た人物を描くとき、現実の体を借りながら、固有の一人に閉じ込めない方法を考えていたと読める。 [14]

一九三七年には、二十一年に及ぶ依嘱を経て《雪月花》を完成させ、貞明皇后に献上した。《草紙洗小町》も同年の仕事であり、《砧》は一九三八年と山種美術館などの日本の所蔵記録が示す。英国のある学位論文には《砧》を一九三七年とする記述があるが、作品の年は所蔵側の資料を優先する。長期の依嘱があったからといって、その二十一年間の全ての遅延理由を推測することはできない。多様な注文と発表の場が、同時に松園のもとにあったことは確かである。 [1] [19] [4]

上村松園。昭和十二年五月刊行物掲載、撮影日は不明
上村松園。昭和十二年五月刊行物掲載、撮影日は不明. Source: National Diet Library. 作品記録. 表示用に縮小。

戦争期の公的役割と日常の絵

一九四〇年代を、ただ家庭的な題材を描いた晩年として片づけることはできない。アートプラットフォームジャパンは、松園が一九四一年、三谷十糸子と中国戦線へ慰問に赴いたこと、同年に帝国芸術院会員となったことを記録する。一九四四年には帝室技芸員に任じられ、《静》を戦艦献納を目的とする絵画展に出した。これらは公的な行為として生涯に書くべきだが、その事実だけから、個人的な政治信念の全体まで決めることもできない。作品の受容が当時の制度とどう関わったかは、別途検討を要する。 [1] [20]

一方で三重県立美術館は、《夕暮》(一九四一)や《晩秋》(一九四三)に描かれた仕事をする女性に注目する。裁縫などの行為は母・仲子の記憶とも結びつけて読めるが、戦時に家庭内の働きがどんな価値を負わされたかという問いからも離せない。机や屏風の直線と体の曲線をどう組み合わせるかという造形上の課題も残る。これらの絵を政治から無関係な避難所とみなすことも、全ての身振りを単一の宣伝記号と決めることも、資料の扱いとして粗い。制作、発表、受容をそれぞれ調べたい。 [2] [4]

《菊寿》、一九三九年
《菊寿》、一九三九年. Source: Tokyo Fuji Art Museum. 作品記録. 950px原版を7.79%拡大。
《美人観書》、一九四一年頃
《美人観書》、一九四一年頃. Source: Tokyo Fuji Art Museum. 作品記録. 950px原版を7.79%拡大。

英国の研究者・小島薫は、女性像が昭和期にどのように読まれたかを検討している。米国で刊行された Asato Ikeda の戦時美術研究にも松園を扱う章がある。ただし後者について確認したのは書誌と概要までで、章本文を読んだかのような細部の議論はここに持ち込まない。現在確かめた行動の記録と、後の研究者による解釈を明示して分ける方が、時代の難しさを正直に示せる。 [4] [23]

奈良への移転と最後の制作

戦争の末期、松園は一九四五年二月に京都を離れ、息子・松篁が奈良に設けた画室唳禽荘へ疎開した。三重県立美術館が月を記し、アートプラットフォームジャパンはその後も奈良に住んだことを確認する。京都は出生、修業、家業、職業的な成功の場所だった。移転は単なる住所の変更ではないが、奈良での毎日の暮らしを未確認の細部で埋めることもできない。京都の旧居の現代写真や撮影地不明の肖像を、昭和二十年の奈良の記録写真として流用しない。 [2] [1]

一九四八年、松園は女性として初めて文化勲章を受けた。「初の女性」という事実は大切だが、一人の受章によって女性画家全体の制度上の障壁がなくなったわけではない。松園は画学校の少女から官展の委員、帝国芸術院の会員へ進んだ。同じ道を他の女性がどれほど歩けたかを考えるときにも、賞の名前だけでなく、その前に続いた半世紀以上の具体的な制作と交渉を見る必要がある。 [1] [4]

京都市京セラ美術館は一九四九年の《初夏の夕》を最後の作品とする。松園は同年八月二十七日、奈良の唳禽荘で亡くなった。死因を記す古い研究所資料もあるが、病名を生涯の結論とする必要はない。最後まで日付のある絵を残した画家だったことを、まず伝えたい。《初夏の夕》の美術館写真は現時点で制作使用の権利が確認できず、似た別作品で代用しない。唳禽荘の古写真も、撮影時期・場所・再使用条件が確かなものを見つけてから加える。 [24] [1] [25]

松園の生涯を知れば、絵の女性をすべて作者の家族に置き換えられるわけではない。むしろ、母の茶店にあった絵本、三人の師から学んだ違う方法、似た題名の別作品、展覧会の批評、長い注文と公的な役職、戦争と奈良への移転を区別して見られるようになる。《焔》の眼は本人が説明した作り方を持ち、《序の舞》の姿はモデルと衣装の推敲を経た。《母子》は一九三四年の喪失の近くで読むことができても、未確認の肖像画とは呼べない。生涯は作品の答え合わせではなく、画家が選び、直し、働き続けた条件を示している。 [13] [14] [9]

よくある質問

一八七五年四月二十三日に京都で生まれ、一九四九年八月二十七日に奈良で亡くなりました。本名は津禰とする資料が多く、常子という表記も残っています。 [5] [1]

一八八七年に京都府画学校へ入り、鈴木松年の私塾でも学びました。一八八八年から松年の正式な門人となり、一八九三年に幸野楳嶺、一八九五年に竹内栖鳳に学びました。 [1]

一九〇二年生まれの息子・上村松篁がいます。松篁は花鳥画家となり、その子の淳之も絵を描きました。確認できない私生活の詳細を、その親子関係から推測することはできません。 [10]

いいえ。一八九〇年に内国勧業博覧会で褒状を受け、コノート公が購入した作と、一八九二年に制作され翌年のシカゴ万国博覧会女性館へ送られた作は別です。 [1]

一九四一年に三谷十糸子と中国戦線へ慰問に赴き、帝国芸術院会員になりました。一九四四年には帝室技芸員となり、《静》を戦艦献納のための展覧会に出しています。これらの公的行為と個人的な意図の全体は分けて考える必要があります。 [1] [20]

読者との対話

本人の回想、作品記録、後年の解釈を分けて、画家の生活と制作を考えましょう。

鑑賞の手がかり

茶店と修業

仲子の茶店と三人の師は、松園にそれぞれ何を与えたでしょうか。

同じ題名の別作品

《四季美人図》と《母子》で、二つの異なる作品を見分ける手がかりは何でしょうか。

晩年の記録

戦時の公的行動と、絵から読み取ることをどう区別できますか。

感想を共有する

作品の細部や、根拠となる資料を下のコメント欄で共有してください。

参考文献・出典

  1. 中村麗子「上村松園」アートプラットフォームジャパン、2023年掲載。画学校と私塾、同名の初期作品、官展での地位、戦時の行動、最晩年の基礎年表。
  2. 毛利伊知郎「上村松園の画業とその近代絵画史上の位置」三重県立美術館。制作の幅、模写と調査、展覧会と疎開を検討。1948年の和暦表記に誤植があるため西暦を照合。
  3. 上村松園「あのころ」青空文庫。後年の回想。父、仲子、茶店、絵本、北斎、画学校についての本人の記憶。
  4. Kaoru Kojima, The Image of Woman as a National Icon in Modern Japanese Art、University of the Arts London博士論文、2006年、第5章。女性画家と昭和期の受容の解釈。作品年の一部は日本の所蔵資料で訂正。
  5. 国立国会図書館「上村松園」近代日本人の肖像。生没日、津禰・常子の表記、1900年パリ出品、肖像画像。
  6. 国立国会図書館「近代日本人の肖像」画像利用案内。展示肖像画像のパブリックドメインと出典表示。
  7. 広島県立美術館「上村松園」展覧会記録。茶葉店の1903年閉店、作品・素描・道具を含む展覧会。
  8. 京都市京セラ美術館《人生の花》、1899年。1900年受賞の《花ざかり》とは別作品。
  9. 文化庁《母子》作品解説。東京国立近代美術館所蔵の1934年作、1900年パリ出品作との区別、仲子の死。
  10. 山種美術館「上村松園・松篁」展覧会、2022年。松篁と淳之の続柄と画業。
  11. 京都市「上村家住宅」歴史的建築物一覧、15頁。1914年建築と松篁による後年の使用。掲載写真の制作再使用権は未確認。
  12. ColBase・東京国立博物館《焔》A-11098。1918年作と採用画像の個別記録。
  13. 上村松園「簡潔の美」青空文庫。能、金剛巌、絹裏からの金彩に関する本人の回想。
  14. 上村松園「作画について」青空文庫。《焔》《序の舞》の制作に関する後年の証言。
  15. 京都市京セラ美術館《待月》、1926年。本文の作品情報用。画像の再使用権は推定しない。
  16. 国立美術館作品検索《虹を見る》記録150296。京都国立近代美術館、1932年、二曲一双。
  17. 国立美術館作品検索「画像の利用について」。画像の提供元、作品URLと加工の表示に従う。
  18. 文化庁《母子》指定解説;上村松園「母への追慕」。追慕の解釈と本人の母の記憶を区別。
  19. 山種美術館《砧》所蔵情報。1938年の作品年をアートプラットフォームジャパンなどとも照合。美術館写真は制作画像として未許諾。
  20. 国立美術館作品検索《静》記録2248、1944年。出品目的の説明はアートプラットフォームジャパンの年譜に基づく。
  21. 東京富士美術館《菊寿》06547、1939年、CC0作品画像。
  22. 東京富士美術館《美人観書》06546、1941年頃、CC0作品画像。
  23. スミソニアン図書館、Asato Ikeda, The Politics of Painting 書誌。松園を扱う章を含む刊行物の確認。章本文は未読。
  24. 京都市京セラ美術館「上村松園」展、2021年。《初夏の夕》を最後の作品とする展示資料。
  25. 東京文化財研究所「上村松園」物故者記事。死去と旧い伝記情報。生没年月日は国立国会図書館・アートプラットフォームジャパンとも照合。