寛政六年の大首絵から翌年正月の作品まで。江戸の舞台と現存する版画資料から、写楽の短く多様な仕事をたどります。

はじめに
両手を前に突き出し、目を細めてこちらを見据える男。背景の雲母は鈍く光り、髪は輪郭からはみ出すように広がる。この有名な図を「写楽の江戸兵衛」と呼ぶだけでは、図の肝心な情報が抜ける。描かれたのは、三代目大谷鬼次という役者が、歌舞伎『恋女房染分手綱』で演じた奴江戸兵衛である。メトロポリタン美術館の所蔵品JP2822 [5]は人物と役を区別して記載する。アムステルダム国立美術館のRP-P-1963-16 [5]は同じ図柄の別の現存資料だ。役者名、役名、演目、劇場、所蔵品の番号を分けることが、写楽の絵を見る第一歩となる。
写楽の版画制作が確認できる期間は短い。寛政六年(1794)五月に雲母摺りの大判役者大首絵二十八図を出し、翌寛政七年正月までに百四十図以上を発表した。東京国立博物館の2011年展 [1]が示すこの流れは、大英博物館の作家資料 [2]とも重なる。大英博物館は現存が知られる図柄を144と数え、四期に分ける。一方、ジャパンサーチの写楽解説 [3]は各期の内訳を28・38・64・12図、計142図とする。数の違いを一方に揃えて隠すよりも、「140図以上」と述べ、詳しい内訳には出典を付けたい。数えているのは図柄であって、今日残る一枚一枚の摺りの総数ではない。
寛政六年には閏十一月があった。したがって「十か月間」という説明の月は旧暦の月であり、西暦の五月から翌一月までを現在のカレンダーの九か月として数え直すべきではない。東京国立博物館の展覧会資料 [1]は閏月を明示する。活動が短いことと、写楽の素性が確定しないことは確かに興味深い。しかし、このページでは謎からではなく、版元蔦屋重三郎が出した作品の変化から始める。大首絵以外の細判全身像、二人の役者を描いた図、追善絵、相撲絵まで見ると、写楽を一枚の顔だけで理解することはできなくなる。
要点
役者、役、芝居を分けて読む

役者絵は単なる顔写真の代用品ではない。贔屓の役者がどの役を演じたかを思い出し、舞台の身振りを紙の上で見直すためのものでもあった。現代の私たちが人物の顔だけを切り取れば、当時の客が知っていた演目や芸名の重みは伝わらない。2011年の東京国立博物館の写楽展は、役者・役名・上演作品を番付などと照らし、上演時期によって作品を並べたと東京文化財研究所の記録 [4]は述べる。作品ごとの欄を整える際には、この方法を手本にする。
江戸兵衛の例で整理しよう。「三代目大谷鬼次」は役者の芸名と代数、「奴江戸兵衛」は劇中の役、『恋女房染分手綱』は演目である。アムステルダム国立美術館の資料 [5]は河原崎座との関係を記す。RP-P-1963-16はその館の現物の所蔵番号で、メトロポリタン美術館のJP2822 [5]は同じ図柄を摺った別の現物である。このように分けると、図の題名の英訳が多少違っても、何を比べているのかが明瞭になる。メトロポリタン美術館は、にやりとした顔、逆立つ髪、突き出す両手を、荒々しい家来の役を表す形として解説している。役を表した姿であって、役者本人の私生活を覗いた顔と考えるべきではない。
同じ演目に取材した初代市川男女蔵の奴一平、メトロポリタン美術館JP196 [6]を並べると、二人の家来役を写楽がどう違えて構成したかを考えられる。ただし「同じ芝居」という記録から、この二枚がもともと一組で売られたと断定してはいけない。現在比較する現物も別々の美術館資料である。目、手、襟元、体の傾きに注目すると、背景をほぼ取り去った画面でも役の気配が立ち上がる。
写楽の最初期にはほかにも異なる役柄がある。二代目瀬川富三郎のやどり木、JP3112 [6]は『花菖蒲文禄曽我』に、中山富三郎の宮城野、JP1737 [6]は『敵討乗合話』に結びつけられている。題名に役名だけを挙げても、人物は誰が演じたのかが分からない。役者名だけでも舞台上の状況が分からない。この区別は、女形の役や、同じ役者が別の芝居に登場する場合にとりわけ大切である。
第一の時期――二十八図の大首絵


大英博物館の資料 [2]によれば、寛政六年五月の二十八図は江戸三座の上演に取材した大判の役者大首絵である。東京国立博物館 [1]は、雲母摺りの豪華さにも着目する。雲母は鉱物の粉で、実際の紙面では光の当たり方や見る角度により見え方が変わる。画面から舞台装置を大きく省くことで、顔、髪、襟、手の形を強く見せる。一枚のデジタル写真は色や配置を伝えても、その光り方をそのまま再現するものではない。
「大首絵」は頭だけを描いたという意味ではない。胸から上の姿と手を含む図も多い。江戸兵衛の両手は脇役のような細部ではなく、顔とともに役の動きを作る。アムステルダム国立美術館の高精細画像 [5]を基に、目元、手、雲母地、役者名の文字と署名をそれぞれ拡大して見ると、黒っぽい余白が単なる「何もない所」ではないことが分かる。拡大した細部も一枚の所蔵品の一部であり、顔、手、文字、地を合わせて初めて構図の働きが見える。
やどり木、宮城野、一平、江戸兵衛を並べると、二十八図を「怖い顔ばかり」と一括できない。大英博物館 [2]は役者の持ち味と演じる役の両方を鋭く捉えたと評する。これは批評的な評価であり、版画から役者本人の内面を証明できるという意味ではない。衣装や姿勢、顔の誇張が舞台の一場面をどう凝縮するかを問う方が、作品を具体的に見られる。
豪華な二十八図の同時刊行は、版元の大きな企画だったと推測できる。東京国立博物館の展覧会資料 [1]も華々しい登場として述べる。しかし、紙と雲母、版木が必要だったという事実だけから、蔦屋がいくら投じ、何枚売り、儲けたかは分からない。今日残る現物の数も当初の摺り部数ではない。大胆な企画であったことと、正確な販売成績を知っていることは分けて記す。
第二の時期――顔から全身へ
ジャパンサーチ [3]は寛政六年七月から八月の作品を三十八図とする。うち三十図は縦長の細判に役者の全身を描き、ほかに雲母地の大判もある。大英博物館 [2]も三十八図を第二期として扱う。大首絵では顔のそばの手が強い印象を残したが、全身像では足の置き方、袖、着物の模様、身体の傾きと余白が役を伝える。細長い紙面では、見る人の視線を上下に動かす構成が重要になる。
ジャパンサーチが紹介する三代目大谷鬼次の川島治部五郎 [3]は、八月の河原崎座上演に結びつく全身像である。江戸兵衛と同じ芸名の役者が、別の芝居で別の役を担った例になる。同じ名前を見つけたからといって、二枚を同じ場面の図としてはいけない。また、三代目沢村宗十郎の名護屋山三と瀬川菊之丞のかつらぎ [3]のように、二人の関係を一つの構図に納めた例もある。ジャパンサーチで図柄を見つけた後は、所蔵館の元記録を読むことで、それがどの現物なのかを確かめられる。
第二期を第一期の「縮小版」と見るだけでは、絵師と版元が変えた問題を見失う。近くで顔を見せる紙面から、衣装をまとった身体や二人の距離を見せる紙面へ移ったのである。大英博物館 [2]は第二期にも優れた作が多いと評する。ジャパンサーチ [3]は、顔の誇張が抑えられて場面全体へ関心が移ると説明する。両者の評価を混ぜて一つの事実にせず、実際の作品の形式を先に見る。
第三の時期――二人の役者と別の題材

寛政六年十一月から閏十一月にかけて、ジャパンサーチの分類では六十四図がある。細判の全身役者絵四十七図、間判の大首絵十一図のほか、追善絵二図と相撲絵四図が含まれる。ジャパンサーチの内訳 [3]による数字であり、他館の総図数へ機械的に足し合わせない。「第三期」は今日の研究で作品を並べる枠組みで、江戸の購入者が必ず同じ区分を使ったという意味ではない。
メトロポリタン美術館の二枚続きJP3128a,b [7]は、この時期を考える具体例になる。三代目市川八百蔵と初代中山富三郎が二人の禿として獅子舞を演じる。館は寛政六年十一月とし、桐座で上演された『忍恋雀色時』との関係を記す。役者と役を示す文字は、この現物に手書きされている。したがって同じ図柄の全ての摺りに同じ手書き文字があるようには説明できない。二枚をつないで一つの場面として表示する場合も、JP3128aとJP3128bという二枚の現物であることを明記する。
大首絵一枚とこの二枚続きを比べれば、画面の境目が意味を持つ。各役者は縦長の一枚に立ち、同時に二枚の間に関係が生まれる。現代の画像合成ではつなぎ目を見落としやすいが、物理的な紙の幅は構図の一部である。一方、追善絵や相撲絵の存在は、写楽を歌舞伎の顔だけの絵師として固定できないことを示す。これらの題材があったことは分類資料から分かるが、個々の追善絵や相撲絵の細部を論じるには、その現物の記録を読む必要がある。
第四の時期――寛政七年正月
ジャパンサーチ [3]は最後の時期に十二図を数える。寛政七年正月の細判全身役者絵十図と、間判の相撲絵二図である。大英博物館 [2]も、この正月の後に写楽名の制作が確認できなくなるとする。ここから「死亡した」「江戸を去った」「仕事を禁じられた」とは言えない。確かなのは、知られる版画の刊行が終わることだ。
終わりを、最初の江戸兵衛から逆算して説明する誘惑は強い。大きな雲母摺りが小さな図へ変わり、世間が役者の似顔を嫌ったために消えた、といった筋書きである。ジャパンサーチ [3]には、『浮世絵類考』の伝える、似顔が真に迫りすぎて流行しなかったという後世の評価が紹介される。それは歴史的な見解として重要だが、当時の帳簿や注文記録ではない。版元の判断、販売、健康、絵師のほかの仕事など、どの理由が決定的だったかをこの文言だけでは知り得ない。
最後の十二図も写楽の仕事を理解するために欠かせない。大首絵の印象が強くても、寛政七年の細判全身像と相撲絵には別の画面の問題がある。寛政六年の図を見て翌年の作品を判断することはできず、それぞれの所蔵資料に戻る必要がある。
図柄と現物は同じではない

写楽の著名な図柄は、複数の美術館、書籍、商品、現代の画像を通じて広く知られる。しかし「同じ江戸兵衛」でも、それぞれの所蔵館にある紙は別の現物だ。摺りの色や紙、断裁、後世の書き込み、撮影時の光は違いうる。所蔵番号はその現物を特定する。アムステルダム国立美術館RP-P-1963-16 [5]とメトロポリタン美術館JP2822 [5]は、同じ図柄の比較に役立つが、一方の寸法、権利、来歴を他方へ移してはいけない。二つのサムネイルだけから、版木を変更した異版・後摺りだったと断定することも避ける。
雲母地の記載にも現物の違いがある。メトロポリタン美術館は自館の江戸兵衛の素材に白雲母を記し、アムステルダム国立美術館は自館の灰色がかった雲母地を説明する。これは互いに矛盾する館名をどちらか一つへ揃える話ではない。各館がどの現物を見て記述したかを確かめる話だ。高精細画像から細部は学べても、現物を動かして光を当てたときの変化までは戻せない。
江戸兵衛の文字欄、写楽の署名、二人の禿の現物にある手書きの役者名 [7]も見落としたくない。英語の短い題名と顔の切り抜きだけを並べれば、作品が舞台の情報をどう運んだかが消える。各図の説明には日本語の題名・画中の文字、役者の代数、役、演目、旧暦の月、所蔵番号を、確認できた範囲で示す。記録が不足する項目は推測で埋めず、未確認とする。
写楽は誰だったのか
「東洲斎写楽」という署名は確かに残るが、戸籍上の人物像が一続きに分かるわけではない。東京国立博物館の2006年の解説 [8]は、阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛を有力な説として挙げる。大英博物館の資料 [2]は、どの正体説も一般の合意を得ていないとする。ジャパンサーチの解説 [3]を読むと、『浮世絵類考』への後からの補記を通じて八丁堀や十郎兵衛の情報が伝わる経路が見える。後の書き込みと、寛政六年の版画にある署名を同じ種類の証拠として扱えない。
従って、出生地、幼少期、師、家族、没年を推測で満たす「普通の伝記」は作れない。それでも独立した写楽の伝記は必要だ。日付を持つ作品の年表、蔦屋の役割、江戸の劇場と上演、絵の形式の変化、正体を巡る文献の年代と証拠の強さ、後世の受容を詳しく整理できる。十九世紀以降の江戸・東京の古写真を補助的に使う場合は、その撮影年と場所を明記し、写楽がその眺めを見た証拠のようには置かない。
正体の謎は読者の入口にはなるが、作品の魅力をすべて説明するものではない。東京国立博物館の2011年展 [1]は、謎だけではなく造形そのものを見せる企画だった。顔と手で役をどう表すか。全身像に変わると衣装や姿勢は何を語るか。二枚続きの境界を越えて二人がどう関わるか。こうした問いは、写楽の本名について新資料が出なくても考え続けられる。
同時代の役者絵と後の評価
写楽より前から役者絵はあり、寛政期にも他の絵師が同じ役者や演目を描いていた。東京国立博物館の2011年展作品リスト [9]は、写楽以前の役者絵とライバルの作品を並べる。比較するときは、同じ芝居・役・上演時期を揃えるほど、表情、背景、衣装、画面の距離に対する選択が見えやすい。メトロポリタン美術館の歌川豊国による沢村宗十郎三世の一図 [10]は1795年ごろのパブリックドメイン資料で、館は豊国の比較的落ち着いた全身像と写楽の強いポーズを対照する。これは特定の例についての館の解説であり、豊国の全図が穏やか、写楽の全図が誇張という規則ではない。
ボストン美術館の日本版画コレクション [11]には多数の資料があり、同館の出版物の紹介 [11]は、寛政六年五月の写楽による沢村淀五郎・坂東善次の二人を描いた所蔵品11.14676を挙げる。敵対する役の対比は、二人の顔があるという以上の構成上の意味を持つ。ボストンの個別記録を読むと、二人の役と上演の関係をさらに確かめられる。大きなコレクションの紹介文だけから、その一枚の細部まで推測することは避けたい。
今日の写楽評価も、寛政六年の客の評価と同じではない。ジャパンサーチ [3]は、1910年のドイツの研究者ユリウス・クルトによる研究書を、国際的な再評価の一つの節目に挙げる。国立新美術館の2011年展覧会記録 [12]もこの受容史に触れる。一方、当時の販売部数や個々の客の好みを後世の名声から逆算することはできない。
2011年の東京国立博物館展は、写楽の版画142点を展示し、初期の役者絵、蔦屋重三郎、全作品、ライバル、後世への影響を順に扱ったと東京文化財研究所 [4]は記録する。ここでの142点は展覧会に並んだ資料の数であり、各館が採用する「現存図柄の総数」と同一の統計ではない。このサイトでも、作家トップで全体像をつかみ、役者絵年表で作品の順序を調べ、江戸兵衛の専用ページで一つの図柄を細かく見て、伝記で証拠の強さを考える構成にする。
この作家ページから先へ
江戸兵衛の詳しい解説では、アムステルダム国立美術館の高精細な現物画像から、顔、手、文字、雲母地を拡大して見る。同じ図柄のメトロポリタン美術館所蔵品との違いも、現物に属する記録を混同せずに比べる。役者絵の年表では四期を進み、役者名・役名・演目・劇場・旧暦月を分けて読めるようにする。伝記は蔦屋との制作と、斎藤十郎兵衛説を含む文献の証拠を扱う。どの作品も、まず図柄と現物の所蔵記録を確認してから比べたい。
有名な一枚を見てから別の形式へ進むと、写楽は「突然現れて消えた謎の顔描き」という短い言葉に収まらない。歌舞伎の上演、版元の企画、紙面の大きさ、後から残った現物、そして美術館の研究が重なって、今見ている画像に至る。その層をたどることこそ、二十八図の華やかな始まりと、その後の短く多様な仕事を同時に理解する方法になる。
読者との対話
一枚の役者絵を選び、役者、役、身振り、文字を見比べて気づいたことを共有してください。
読者の気づき
江戸兵衛の手の形は、顔の表情に何を加えますか。
二つの江戸兵衛の所蔵品を比べると、どこに違いが見えますか。
大首絵と二人の禿の二枚続きでは、視線の動きはどう変わりますか。
コメントを寄せる
作品と所蔵番号を添えて気づいたことを共有してください。
参考資料
- 東京国立博物館、2011年「写楽」展、日本語展覧会資料。初期二十八図、旧暦の活動期間、四期の展覧会構成。
- 大英博物館、東洲斎写楽作家資料。144図という集計、蔦屋重三郎、正体説への留保。
- ジャパンサーチ、東洲斎写楽、英語版。四期の内訳と文献史。画像転用は各所蔵館の条件を別に調べる。
- 東京文化財研究所、2011年写楽展の記録。展示した142点と番付を使った研究方法。
- メトロポリタン美術館、三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛、JP2822、アムステルダム国立美術館、RP-P-1963-16。同じ図柄の別資料。
- メトロポリタン美術館、初代市川男女蔵の奴一平、JP196、二代目瀬川富三郎のやどり木、JP3112、中山富三郎の宮城野、JP1737。初期の役者絵。
- メトロポリタン美術館、二人の禿、JP3128a,b。十一月の二枚続きとこの現物の手書き文字。
- 東京国立博物館、2006年写楽解説。斎藤十郎兵衛説。
- 東京国立博物館、2011年展作品リスト。写楽以前と同時代の役者絵。
- メトロポリタン美術館、歌川豊国《沢村宗十郎三世の島田重三郎》、JP2720。同時代の比較例。
- ボストン美術館、日本版画コレクション、出版物紹介。所蔵品11.14676の研究候補。
- 国立新美術館、2011年展覧会記録。写楽の後世の評価。
- 国立国会図書館、『東洲斎写楽 : 原寸大全作品』書誌、WorldCat、2011年東京国立博物館展図録。書誌を確認したが本文の全内容は未読。



