フィンセント・ファン・ゴッホは日本へ行ったことがない。それでも広重の版画を手元に置いて写し、浮世絵を仲間に見せ、南フランスを自分なりの「日本」に重ねて考えた。京都国立近代美術館の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」は、ゴッホが浮世絵や文献からつくった日本像と、のちに日本の芸術家や知識人がつくったゴッホ像を二方向から検討した。このページもその往復を意識し、確認できる所蔵品と油彩画、画家自身の言葉、後世の受容を分けて読む。 [1] [3]

まず「影響」の種類を分ける
ゴッホと弟テオは多くの日本版画を集めた。ファン・ゴッホ美術館の展示解説は、二人が数百点の木版画を所有し、ゴッホが色面、輪郭、切り取りなどを自作に取り込んだと説明する。ただし、所蔵の記録があることと、ある絵の一部分を特定の版画一枚から写したことは同じではない。実際に模写の相手が分かる作品もあれば、作品の形や色の似かよりから比較できるだけのものもある。 [3]
目次
- まず「影響」の種類を分ける
- パリで集め、見せ、交換した版画
- 《亀戸梅屋舗》を写す――どの摺り、どの色か
- 雨の橋を版画から油彩へ
- 《花魁》と雑誌という中間媒体
- 《タンギー爺さん》の背景は何を語るか
- アルルを日本に重ねた言葉
- 《アーモンドの花》まで続く問い
- 日本から見たゴッホ――受け取る側の歴史
- よくある質問
| 関係の種類 | このページの例 | 読むときの注意 |
|---|---|---|
| 現物の所蔵 | ゴッホ旧蔵の広重《亀戸梅屋舗》はファン・ゴッホ美術館n0077V1962。 | 掲載したアムステルダム国立美術館の摺りRP-P-1956-743は別の現物。 |
| 制作手順の証拠 | ゴッホは自分の摺りを方眼で写した。トレースd0772V1962が残る。 | 油彩の色まで同じ摺りから採ったとは限らない。 |
| 視覚的な比較 | 《花咲く梅の木》と《アーモンドの花》を比べられる。 | 二作が似て見えても、後者の下絵が前者だったとは言えない。 |
| 画家の考え | 書簡に日本の芸術家や自然への理想が語られる。 | それはゴッホの理解であり、日本の実態を一括して記述したものではない。 |
パリで集め、見せ、交換した版画
ゴッホがテオと暮らしたパリは、版画店、画商、美術雑誌、画家仲間が交わる場所だった。ファン・ゴッホ美術館の所蔵研究は、兄弟の収集を個人の好みだけでなく交換や将来の販売構想とも結びつけ、入手経緯の分からない作品もあると述べる。「ゴッホが持っていた」という表現を使う場合にも、いつ誰が買い、どの時点で兄弟のものになったかまで分かるとは限らない。 [14]
1887年にはカフェ・ル・タンブランで日本版画を展示した。ゴッホは翌年、テオ宛ての書簡でこの催しに触れ、ベルナールやアンクタンへの影響を振り返る。書簡の編集者は開催時期をおよそ1887年2~3月と推定する一方、別の会場で二度目の版画展をしたと断定する根拠はないと注意している。画家自身の回想と、あとから推定された開催日を区別しておきたい。 [4] [5]
掲載した《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》は、ゴッホが描いた店主と店内の油彩画で、ファン・ゴッホ美術館s0017V1962。これは版画展当日の記録写真ではない。同館の学術目録によると店内の写真は知られておらず、この絵からタンバリン形のテーブルなどを知る。場所を想像する助けになる一方、展示の壁面配置まで再現する資料にはならない。 [15]

《亀戸梅屋舗》を写す――どの摺り、どの色か
広重《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》では、手前の大きな梅の幹が視界を遮り、奥に庭を訪ねる人々がいる。1857年の江戸の名所を、樹木越しにのぞく図だ。掲載図版はアムステルダム国立美術館RP-P-1956-743。この版画を「ゴッホが持っていた一枚」と呼ぶのは正しくない。ゴッホ旧蔵の現物は、別にファン・ゴッホ美術館n0077V1962として残る。 [6] [7]

ゴッホは1887年、自分の摺りを方眼の上にトレースし、油彩《花咲く梅の木(広重による)》へ拡大した。トレースd0772V1962、油彩s0115V1962/F0371まで残るため、ここでは単なる「日本風」という印象を超えて制作手順をたどれる。大英博物館の解説はさらに細かい違いを挙げる。線の位置は所蔵版画を写したが、色は未特定の初摺りを参照したらしいという。図柄と摺りの色を同じ一枚の源泉にまとめないところに、複製文化の面白さがある。 [6]
ゴッホの油彩は版画より大きく、鮮やかな色を使い、左右に文字の帯を設けた。日本語の文字はこの絵に「日本」を感じさせる一方、江戸の名所の説明として読めるとは限らない。広重にとって亀戸の梅園は人が集まる具体的な場所であり、ゴッホにとってこの図はパリで絵画を変えるための素材でもあった。どちらの作品も梅を描くが、見る人、場所、媒体が違う。 [6] [7]
雨の橋を版画から油彩へ
広重《大はしあたけの夕立》では、橋を渡る人々に細い雨線が斜めから重なる。ここに掲げたメトロポリタン美術館JP2522は、この図柄の一つの摺りである。ゴッホ旧蔵の摺りそのものはファン・ゴッホ美術館n0081V1962として別に記録される。版画の多くは同じ版木から複数の現物が生まれるため、所蔵番号を入れ替えないことが大切だ。 [8] [16]

ゴッホ《雨の橋(広重による)》は1887年の油彩、ファン・ゴッホ美術館s0114V1962。広重の急な雨と橋の斜線を絵具へ置き換え、画面の縁に日本語風の文字を加えた。印刷された細線をそのまま再現することはできず、油彩では色の厚みと筆の動きが前に出る。元の版画を探して見ることは、どこを写したかだけでなく、絵具に変えたとき何が変わったかを確かめることでもある。 [3] [8]

この二点を比べるとき、江戸の大橋を南フランスのラングロワ橋と混同しない。ゴッホが後にアルルで描いた橋は別の場所、別の制作事情を持つ。橋や斜線という共通語だけで、すべての橋の絵を一つの版画へ結びつける説明は粗くなる。広重の日本語ホームと《名所江戸百景》では、版画側の連作と都市の文脈をさらに見られる。 [8]
《花魁》と雑誌という中間媒体
ゴッホ《花魁(渓斎英泉による)》、ファン・ゴッホ美術館s0116V1962は、英泉の図を参照した作品である。ただしゴッホが手にしたのは英泉の版画現物だけではなく、1886年のフランス語雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集の表紙で流通した再現図だった。オランダの文化遺産研究機関は油彩をF0373/JH1298と同定する。媒体を一段挟むだけで、色、向き、印刷品質、説明文が変わりうる。版画から油彩へ一直線に移ったという図式では、この雑誌を見落とす。 [9]

ゴッホの画面では女性の周囲に水辺、植物、動物などが増え、油彩ならではの装飾的な縁取りが広がる。彼が「日本的」と考えた記号の組合せを読むことはできる。しかし、英泉の作品と幕末の女性表象を、このヨーロッパの画家の空想だけで説明してはならない。いつか英泉の所蔵版画を別ページで扱うなら、元の摺りの題名、版元、制作時期を独立に調べ、ゴッホ版のキャプションへ吸収しないようにしたい。 [9] [1]
《タンギー爺さん》の背景は何を語るか
《タンギー爺さん》は1887年の油彩で、ロダン美術館P.07302。画材商のジュリアン・フランソワ・タンギーは正面を向いて座り、背後には多くの日本版画の図柄が並ぶ。同館の解説は、平たく見える画面、補色、筆触なども取り上げる。背景だけが日本的で人物だけがフランス的、と画面を二つに切り分けるより、パリの人間関係、画材、収集、絵画実験が一緒になった肖像として読むほうがよい。 [10]

この背景を「ゴッホ所有の版画全点を一覧にした壁」とみなすこともできない。絵の中の版画は画家が選び配置した図柄で、肖像の視覚的な主張にもなっている。現物のコレクションを調べるにはファン・ゴッホ美術館の所蔵記録が必要であり、この油彩画を台帳の代わりにはできない。 [10] [14]
アルルを日本に重ねた言葉
1888年にアルルへ移ったゴッホは、テオ宛ての手紙で南フランスを「日本」にたとえた。別の手紙では、日本の芸術家が一本の草を丹念に観察し、そこから四季や生き物まで学ぶという理想を語る。彼が画家の生活を自然に近づけたいと思っていたことはよく伝わる。ただしこの記述は19世紀の一人の西洋人の日本像である。浮世絵の版元、彫師、摺師、都市の市場といった制作・流通の現実を、無名の自然愛好家という像で置き換えてはならない。 [12] [13]
京都国立近代美術館の2018年展が「理想郷としての〈日本〉」という表現を使ったのは、この区別を考える手がかりになる。ゴッホが南フランスに見た光や色は自作を動かす想像力だったが、日本の風景や人々を正確に記録したわけではない。絵の明るさと歴史的な理解の深さを同一視しないことで、版画そのものも見えてくる。 [1]
《アーモンドの花》まで続く問い
《アーモンドの花》は1890年、甥の誕生を祝うために描かれた。ファン・ゴッホ美術館s0176V1962。同館は枝を画面の外で切る配置や明確な輪郭に日本版画との関係を指摘する。ここでは広重の特定の一枚を写したという証拠があるわけではない。青い背景に枝を広げる形の選択と、家族への贈り物という制作の事情をともに読む必要がある。 [11]

《花咲く梅の木》のような直接の模写と、《アーモンドの花》のように後年の画面に残った造形上の選択は、同じ「日本の影響」でも根拠の強さが違う。前者には現物の版画、方眼のトレース、完成した油彩がそろう。後者では美術館が輪郭と切り取りを比較し、さらに誕生の記念という固有の意味を確認する。一つの説明で両方を覆うより、作品ごとに資料の種類を示したい。 [6] [11]
日本から見たゴッホ――受け取る側の歴史
ゴッホと日本の話を「日本が西洋に影響を与えた」で終えると、その後が消える。京都国立近代美術館の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」は、浮世絵からゴッホへという第一の経路と、日本の芸術家・知識人がゴッホを読み、オーヴェールを訪ねた第二の経路を並べた。1991年に同館が開いた「ゴッホと日本」展も、ゴッホ旧蔵の版画約50点と日本に関わる資料を紹介している。この「約50点」はその展覧会の出品範囲であり、ゴッホの全所蔵数ではない。 [1] [2]
日本の芸術家が見たゴッホも、ゴッホが見た日本と同じく選び取られた像だった。誰がどの作品を見て何を受け取ったかは、展覧会の出品目録、旅行記、文章、制作物を別々に調べる必要がある。京都の展覧会記録はその入口になるが、「日本人はゴッホをこう考えた」と一括りにする答えではない。二方向の受容を知るほど、広重や英泉の版画とゴッホの油彩を、どちらかの付属物にせず見られる。 [1] [2]
よくある質問
はい。ファン・ゴッホ美術館には、ゴッホ旧蔵の《亀戸梅屋舗》n0077V1962と《大はしあたけの夕立》n0081V1962が記録される。ただし、このページに掲載したアムステルダム国立美術館とメトロポリタン美術館の画像は別の摺りである。 [6] [16]
ゴッホは自分の版画を方眼でトレースして大きさを変えたので、図柄の直接の関係は明確である。一方、油彩の色には別の初摺りが関わった可能性があり、絵具、画面の縁、文字も自分で変えた。「直接の模写」と「機械的な複製」は同じではない。 [6]
このページで扱う京都国立近代美術館の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」は2018年1月20日から3月4日まで開かれた過去の展覧会である。ここでは訪問案内ではなく、その研究の視点と出品記録を参照している。 [1]
参考資料
- 京都国立近代美術館「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」。2018年の展覧会の趣旨、会期、日本側からの受容。
- 京都国立近代美術館「ゴッホと日本」。1991年展の資料と旧蔵版画の出品範囲。
- ファン・ゴッホ美術館、常設展示解説「Dreaming of Japan」。兄弟の収集と画家が想像した日本。
- Vincent van Gogh, The Letters, Letter 640。1888年7月15日、テオ宛ての書簡。
- Vincent van Gogh, The Letters, Letter 640 editorial notes。タンブランの版画展示の推定時期と別会場をめぐる注意。
- 大英博物館「Hiroshige: Artist of the Open Road」大活字ガイド。ゴッホ旧蔵n0077V1962、トレースd0772V1962、油彩s0115V1962と色の問題。
- アムステルダム国立美術館、広重《亀戸梅屋舗》。RP-P-1956-743、掲載した別の摺り。
- メトロポリタン美術館、広重《大はしあたけの夕立》。JP2522、掲載した別の摺り。
- オランダ文化遺産庁、ゴッホ《花魁(渓斎英泉による)》研究記録。s0116V1962/F0373/JH1298。
- ロダン美術館、ゴッホ《タンギー爺さん》。P.07302、肖像と版画の背景。
- ファン・ゴッホ美術館、ゴッホ《アーモンドの花》。s0176V1962、誕生の贈り物と日本版画との造形上の関係。
- Vincent van Gogh, The Letters, Letter 686。1888年9月23日または24日、日本の芸術家と自然への理想。
- Vincent van Gogh, The Letters, Letter 620。1888年6月5日ごろ、南フランスと日本の比較。
- ファン・ゴッホ美術館、Joost van der Hoeven「The Genesis of the Collection」。収集、交換、所有をめぐる研究。
- ファン・ゴッホ美術館、タンブランに関する学術目録。店内写真の不在と《アゴスティーナ・セガトーリ》s0017V1962。
- ファン・ゴッホ美術館、2005年年報。旧蔵の広重版画n0077V1962とn0081V1962を列挙。
読者との対話
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読者の気づき
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