《焔》《序の舞》《虹を見る》を、本人の随筆と作品記録から読み解きます。

上村松園の女性像は、何を語るのか
《焔》の女性は立ち止まっているようにも、今にも画面の外へ移るようにも見える。長い黒髪が乱れ、白い衣に藤と蜘蛛の巣の文様が広がる。顔は整っているが、眼は安らかではない。一方、《虹を見る》の人物たちは同じ画家による女性像でも、空に向けた視線を共有する。上村松園(一八七五―一九四九)が描いたのは、一つの決まった「日本女性」ではなかった。物語の怨霊、能を舞う人、本を読む人、子を抱く人には、それぞれ別の時間と感情がある。 [1] [2]
松園を「美人画家」と呼ぶこと自体は誤りではない。しかし美人画という言葉を、女性の容貌を美しく整える技法だけに縮めると、絵の中の行為を見失う。人が何を待つか、どちらを見るか、手や袖がどこへ動くか。絵の内容はそうした小さな選択から立ち上がる。三重県立美術館の毛利伊知郎は、松園が京都の浮世絵、昔の衣装、現代の生活、能の人物などを選び直しながら制作したことを、展覧会歴と作品の変化に沿って論じている。すべての女性像を同じ伝統の反復として見ないための重要な研究だ。 [3]
本ページでは、生涯の出来事をただ順に並べるのではなく、画家が一枚の中で何を解こうとしたかをたどる。最初に《焔》の全身と細部を見て、能から得た動きや心理表現へ進む。続いて現代の女性像と母子像を比べる。最後に、作品の題名が同じでも別物である場合や、図版の複製条件が変わる場合を確認する。それらは細かな学術的作法に見えるが、鑑賞者が「今、どの作品を見ているのか」を確かにするために必要である。 [1] [4]
ひと目でわかる上村松園
- 生没年1875–1949年
- 活動地京都
- 分野日本画、美人画、能の画題
- 主な作品《焔》《序の舞》《虹を見る》《母子》
目次
京都で学び、作品を公開する
松園は京都に生まれ、父の死後、茶を商う母・仲子に育てられた。本人の回想《母への追慕》には、働く母の姿と、絵を学ぶ娘を支えた記憶が残る。後年の文章だから、幼年期のすべてをそのまま再現する記録ではない。それでも、松園が母の働きを自分の制作と結びつけて考えていたことは、画家自身の言葉として受け取れる。母子の主題を論じる際にも、この記憶と個々の作品の制作事情を分けて読みたい。 [5]
鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳へと続く学びの道筋は、京都の絵画教育や師弟関係の中に松園を置く。人物を筆の線で立ち上げる訓練に加え、過去の服装や風俗を調べ、目の前の人物を観察し、作品として必要な形へ直す仕事があった。現代から見れば「伝統的な日本画」という一つの箱に入れがちだが、当時の画家にとって、どの流派から何を学び、どの展覧会に何を出すかは、現在進行形の判断だった。東京文化財研究所の年譜と京都市京セラ美術館の回顧展資料は、若い時期から晩年までの制作をつなぐ基礎になる。 [6] [7]
国立国会図書館の人物紹介は、一八九〇年の第三回内国勧業博覧会での受賞を挙げる。その後、松園は文展などの公開の場で作品を問われた。展覧会に出す絵は、注文主の私的な空間にだけ置かれる絵とは観客が異なる。制作年や出品の記録は、画家がどのような場を選んだかを知る手がかりとなる。ただし、ある年に文展へ出品しなかったことだけで制作が止まったとは言えない。毛利は《焔》後の不出品を「不調」の証拠とする読みについて、他の時期にも不出品があると注意を促す。 [8] [3]
同時代の女性画家を一括りにするのも避けたい。英国の大学で発表された小島薫の研究は、野口小蘋、池田蕉園、島成園と松園とでは、学びの機会や支援者、展覧会での位置が違ったことを検討する。池田蕉園と上村松園は名前に「園」を共有しても別人であり、作品画像や作者の帰属を取り違えてはいけない。小島の研究は、女性像が社会の理想や批評にどう置かれたかを考える視点を与える一方、個々の作品の年・所蔵・技法は所蔵館の記録で照合する必要がある。 [9]
松園が過去の題材を描くことと、過去の制度の中だけで活動したことは別である。衣装や物語を調べ、実際の人物を見て、公共の展覧会で評価される画面へ組み直す。その過程には、古い手本を忠実に写す以外の選択が多い。《序の舞》の袖を変更したという本人の話は、作品を歴史的に「正しい」衣装へ固定するより、見せたい動きに合う形を考えた一例だ。能を知ること、現代のモデルを使うこと、舞台を絵に変えることは、異なる工程として重なっている。伝統という言葉で結果だけを説明せず、制作時の判断を作品に戻して見る必要がある。 [12] [3]
同じ理由で、松園の随筆を制作時の録音のように扱わない。画家自身の言葉は、他者の解説では代えられない。だが後年の回想には、その後に得た視点や、語りたいことを選ぶ働きがある。例えば《焔》をめぐる苦しさの説明は、その絵に私的な重みがあったことを示しても、完成した画面が私事の暗号だと証明しない。展覧会の記録、所蔵館に残る作品、随筆、後世の美術史研究を、互いに問いを投げかける資料として読む方が慎重である。 [12] [3]
一九〇〇年ごろの《Summer Evening》は、米国シアトル美術館にある高さ214.5センチ、幅62.2センチの細長い作品である。画像の利用条件はこのサイト用には確認できていないため、ここでは図版にしない。しかし早い時期から、松園が縦に長い画面に人物を置く課題に向き合っていたことを考える手がかりになる。後年の《焔》と寸法の近さだけで心理的な連続性を証明することはできない。比較できるのは、まず画面の形式である。作品を年代順に並べるだけでなく、どういう大きさや形を画家が使ったかにも目を向けたい。 [10] [1]
《焔》――六条御息所の眼を見る
ColBaseは《焔》を『源氏物語』の六条御息所を描いたものと説明する。松園自身は、能《葵上》の嫉妬に苦しむ女性から着想を得たと書いた。平安の物語をそのまま一枚に写したというより、文学と能を通って近代の画家が人物像を作ったことになる。能の場では、面、声、身の動きが時間をかけて感情を現す。絵では一瞬の姿にその重みを集めなくてはならない。髪の流れ、顔、衣の文様が互いに違う方向へ働くのは、そのためにも見える。 [1] [11]
《簡潔の美》の中で松園は、金剛巌に能面の泥眼について尋ね、眼の部分の絹の裏から金を施したと回想している。ここには二種類の資料がある。完成した《焔》という現存作品と、後から画家が書いた制作の記憶である。双方を合わせると、眼に注目する理由が具体的になるが、通常のJPEGの拡大だけで金の層や保存状態を科学的に分析したと言ってはいけない。作品の全図と所蔵館の細部画像を行き来し、画家が述べる工夫を実際の表情の中で確かめるのが、このページの注釈画像の役割だ。 [11] [1]

《焔》の細部を見る
番号を選び、全図と細部を比べてください。三つの拡大図はすべて同じ東京国立博物館A-11098です。
注釈画像の細部
眼
松園は能の泥眼について聞いた後、眼の部分の絹の裏から金を施したと回想している。通常画像だけで層の分析はしない。

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 部分図を表示用に縮小。
白い衣を単なる「清らかさ」の記号にしてしまうと、藤と蜘蛛の巣が見えなくなる。蜘蛛の巣を「逃れられない嫉妬」と読む鑑賞者はいるかもしれない。しかし所蔵館が確認しているのは、まず文様の名称である。その文様が作品全体でどのような心理的効果を生むかは解釈として書くべきだ。足元から顔へ戻ると、衣の細い線と髪の大きな曲線の差も見えてくる。190.9センチの縦長の絵を小さな画面だけで見ると眼ばかりが強調される。全身を示す扉画像と細部のポップアップを両方置く理由がここにある。 [1]
《焔》の長い画面には、鑑賞の距離が二つある。離れれば、黒髪と白い衣の大きな面が先に現れ、人物が目の前に立つような尺度になる。近づけば、眼の処理や衣の文様が分かる。一枚のウェブ用画像でその両方を同時に十分伝えることは難しい。扉の全図が人物の姿を保ち、所蔵館の細部画像が物質的な工夫へ案内する。拡大図だけを扉にしてしまうと、画家がほぼ等身大の絹本にどう人物を配したかが消える。図版の順序そのものが、作品の読み方を助ける設計になる。 [1]
この作品を《源氏物語》の「六条御息所」とだけ紹介しても、絵の新しさはつかみにくい。物語上の人物の名は誰を描いたかを示す。しかし松園が自ら記したのは、能《葵上》を経た嫉妬の表現方法、そして泥眼の話を聞いた後の眼への工作である。古典の登場人物、舞台の型、絹の裏面からの金という三つの層が、ようやく一人の姿を作る。文学のあらすじは入口にすぎず、具体的な制作上の選択に戻ったところで、他の六条御息所像とは違う松園の《焔》が見えてくる。 [1] [11]
松園は後に、苦しかった時期に《焔》を描き、描き終えると心が晴れたと述べた。これは画家の制作回想として尊重すべきだが、一枚の絵を彼女の私生活の告白だけに還元する根拠ではない。毛利は、曾我蕭白の美人図との姿や文様の類似にも触れつつ、直接の影響は証明できないとしている。また文展にしばらく出さなかったことと創作上の不調を単純に同一視しない。『源氏物語』、能、過去の絵画、自分の制作経験という複数の経路を、証拠の強さを変えずに見ていく方が《焔》の複雑さに近づける。 [12] [3]
能を描くとき、動きをどう止めるか
松園は《謡曲と画題》で、能の謡や演目の研究について書いている。能の衣装を絵の飾りとして借りるだけではなかった。舞台では役者の動作と声が続くが、絵の人物は動かない。その差をどう埋めるかが、松園にとって繰り返し現れる問題だった。《焔》では揺れる髪と眼が感情を担い、《序の舞》では袖の線が舞の瞬間を可視化し、《砧》では音を発する行為と待つ心を、一枚の静かな画面に受け止める。それぞれの絵を「能の絵」とまとめる前に、何を止め、何を残したかを比べたい。 [13] [12]
《序の舞》は一九三六年の作品で、東京藝術大学が所蔵する。文化庁の解説は、能の舞を舞う現代の若い女性として人物を捉える。松園は《作画について》で、内に芯を持つ女性を描きたかったと語り、複数のモデルを使ったことも明かした。その中に息子・松篁の妻、種子がいる。当初考えた既婚女性の短い袖では思う動きが出ず、未婚女性の長い袖の衣装へ変えたという。したがって「松篁の妻をそのまま描いた肖像」という説明では、構成の過程が消えてしまう。 [14] [12]
長い袖は、単に衣装を華やかにするための飾りではない。舞う身体が次の瞬間へ移ることを、静止した画面の中で感じさせる線である。松園が語った「芯のある女性像」とこの袖の変更を合わせると、優美さと意志を両立させる試みとして読める。ただし詳細な筆致や色を読者に示すには、所蔵機関から利用条件を確認した高品質画像が必要だ。本ページでは権利が未確認の《序の舞》の写真を別サイトから流用しない。作品ページは、正確な図版を用意した上で、モデル・衣装・当時の評判を詳しく扱うべきである。 [12] [14]
《砧》について山種美術館は、遠くにいる夫を待つ妻が衣を打つ能の筋を説明し、絵を一九三八年、絹本着色、217.0×113.0センチとする。音が生む思慕を、聞こえない絵にどう残すかという課題がある。所蔵館は松園が人物を肖像画や仏画にも近い厳かな存在として考えたことを紹介している。一部の後年の研究に一九三七年という誤った年が見られるが、山種の作品記録と東京文化財研究所の年譜は一九三八年で一致する。ここでも作品の写真は利用条件が確認できるまでは本文資料に留める。 [15] [6]
小島の研究は、《序の舞》が後の批評家に国家的な女性像として読まれ得たことを示す。作品が一九三〇年代以降の社会で受け取られた歴史として重要だが、後年の批評の言葉を松園の一九三六年の内心へ直接戻すことはできない。自ら語った制作上の目的、現存作品の造形、当時と後年の受容は別の資料から組み立てる。この区別があれば、時代と作品の関係を曖昧にせず、作者が「意図した」ことも必要以上に断定しないで済む。 [9] [12]
能の三作を年代で並べると、《焔》の一九一八年から《序の舞》の一九三六年、《砧》の一九三八年まで二十年がある。「ある時期に能へ転じた」と一言で言える短い実験ではない。《焔》では怨霊の感情、《序の舞》では抑制された身体の動き、《砧》では離れた夫を思う妻と衣を打つ音が課題になる。舞台なら異なる時間にわたって現れるものを、絵ではどう一つの姿に凝縮するか。松園は題材を繰り返すのではなく、能から別々の造形の問いを取り出していた。作品ごとの寸法や画面形式もその問いに関わる。 [1] [14] [15]
近代の生活の中で見る女性
京都市京セラ美術館の《待月》は一九二六年、193.2×92.8センチの絹本着色。秋を待つような気配と、柱によって空間を分ける構図が美術館の作品解説で説明されている。人物は物語の亡霊ではなく、何かを待つ時間の中にいる。柱は背景の飾りに留まらず、彼女と見えない外側との距離を画面に生む。ここでは画像の利用を確認できていないため図版を掲げないが、作品の内容を《焔》と比べるだけでも、松園が女性の内面を劇的な表情一つに頼らなかったことが分かる。 [16]
京都国立近代美術館の《虹を見る》は、一九三二年、二曲一双の屏風である。所蔵作品総合目録の記録と画像では、複数の人物が同じ空へ視線を向け、鑑賞者の眼も屏風の間を移る。女性が「見られる」だけでなく、女性自身が見る場面であることに注目したい。二つの屏風を一枚の平面的な掛軸として説明すると、見る人が画面をたどる動きが消える。現在の目録には作品ごとのNoC-CR表示と画像ダウンロードがあり、出典、リンク、加工の表示を条件に使える。保持した画像は1024×709pxで、この記事の支援図版になる。 [17] [18]

東京富士美術館の《美人観書》は一九四一年ごろ、53.0×66.0センチ。読書する女性の視線は鑑賞者へ向かわず、本へ落ちる。題には「美人」が入るが、描かれる人は誰かに見せるためだけに存在するわけではない。手元の本がその人自身の行為を作る。東京富士美術館は画像をCC0として提供しており、商用を含めて利用できる。ただし原版は幅950pxなので、1024pxへの小幅な再標本化を支援図版の台帳と制作注記に残す。拡大しても新しい細部情報が増えるわけではないため、注釈画像の元にはしない。 [19]

同館の《菊寿》は一九三九年、66.0×72.0センチ。菊という吉祥の主題と人物の行為を、題名と画面から考えられる。《美人観書》と年代は近いが、同じ「晩年の美人画」に束ねるだけでは、何を見ているか分からない。《虹を見る》では共有される空へ、《美人観書》では本へ、ここでは菊の主題へ、人物の注意が向く。作品の大きさ、画面形式、行為を順に確かめれば、同じ画家の作品を単一の時代様式と呼ぶより豊かな比較になる。これは作品画像からの鑑賞上の読みであり、所蔵館が三作に共通の象徴体系を認定したという意味ではない。 [20] [17]
《虹を見る》を屏風として見ることも大切だ。二曲一双は折れ目を持つ二つの物であり、平らな長方形画像だけとは違う。実際の展示では、見る人の位置や光によって、各面と人物の関係が変わり得る。現在の小さなデジタル図版は作品同定と構図の確認に役立つ一方、その立体的な展示を再現しない。そこでページでは屏風形式をキャプションに明記し、人物が何を見ているかに加えて、こちらの眼がどう左右を移るかを文章にする。画面外の虹そのものを詳しく描いたと断定する必要はない。題名と人物の視線から読者を作品へ戻す。 [17]
《美人観書》と《菊寿》は、東京富士美術館が個別作品ごとにCC0の図版を掲げる点でも貴重だ。ただし権利が明確であることと、画像に十分な細部があることは別の問題である。元の幅950pxをわずかに拡大した二点は、本文の流れで作品全体を比べるために使える。一方、眼や筆触を大きくポップアップする注釈の土台には向かない。サイトの表示寸法に合わせるための再標本化を、実物の情報が増えたかのように装わない。この区別によって、画像の数を満たすことより、各図版が何を読者に見せられるかを優先できる。 [19] [20]


《母子》という題の、二つの作品
一九三四年の《母子》は東京国立近代美術館の作品で、管理番号JI0007、168.0×115.5センチ。文化庁につながる作品解説は、パリの一九〇〇年の展覧会にも《母子》という題の異なる構図の絵を出したと明記する。題が同じだからといって、古い展覧会記録を一九三四年の作品の制作歴として書いてはいけない。検索結果や後年の書籍に図版があっても、年、所蔵、画面構成を確認してから用いるべきだ。現時点で総合目録から得られる一九三四年作の画像は幅529pxで、サイトの1024px図版基準には届かない。 [22] [17]
母の仲子は一九三四年二月に亡くなった。美術館につながる解説は、その年の《母子》に追悼の思いを読む可能性を示す。一方、松園自身の《母への追慕》は、母の仕事や支えを振り返り、自分が母子の主題をたびたび描いたことを語る。死亡の記録、作品の制作年、後年の美術館の解釈、画家の一般的な回想は、互いに関連するが同じ種類の証拠ではない。この絵を「松園と仲子の肖像」と断定する根拠もない。子と母の仕草や距離を詳しく論じるのは、正しい高品質図版を得た作品ページで行いたい。 [22] [5] [23]
「母子」という題はあまりに一般的だからこそ、研究と制作の両方で危険がある。百年以上前のパリ出品記録、一九三四年の現存作、後年の複製図版が検索結果では近くに並ぶかもしれない。画家名だけで画像を選び、題が同じだから説明を流用すれば、違う作品の展覧会歴を現在の所蔵品につなげてしまう。JI0007という番号と一九三四年という年を本文・キャプション・参考文献に置けば、その混同を避けられる。個別記事を作るときには、一九〇〇年作の画像や詳細が確かめられるかも別に調べたいが、現時点でその情報を一九三四年作の隙間に埋めない。 [22]
作品の重要性を伝えるために、まだない画像を他所から無断で補う必要はない。日本の国立美術館総合目録は現在、作品ごとの利用表示を持つが、ここで取得できる《母子》の画像は小さい。別の美術館や展覧会の写真を同じ許諾のもとにあるとみなすこともできない。このページでは管理番号と出典を示し、画像の検討を次の工程に残す。丁寧な同定は、歴史上の母子の話を遅らせるためではなく、読者が間違った絵と解説を結びつけないための仕事である。 [17] [18]
松園の絵を見る三つの手がかり
第一に、人物が何をしているかを見る。《焔》の目は画面の外へ働き、《序の舞》の袖は動きかけの身体を示し、《虹を見る》の人々は一緒に空へ向く。《美人観書》の読者は本へ視線を落とす。行為を先に記述すれば、「美しい」「伝統的」という評価を急がずに、絵の構成に近づける。能に由来する人物も、現代の生活にいる人物も、衣装の違いだけでは説明できない。誰が誰を見るか、鑑賞者の眼がどこを移動するかが、画面ごとに変わるからである。 [1] [17] [19]
第二に、画家の言葉と作品を区別する。松園の随筆には《焔》の裏彩、《序の舞》のモデルと袖、仲子への追慕など、ほかでは得にくい具体的な証言がある。しかし回想は制作当時そのままの録音ではなく、後から選ばれた言葉である。毛利や小島の研究は、出品歴や同時代の反応という別の資料を加える。作品の管理番号や所蔵館の解説は、目の前の物がどの絵かを確定する。これらを混ぜずに並べるほど、画家を神話にせず、その仕事を細かく見ることができる。 [11] [3] [9]
第三に、図版と作品の距離を意識する。《焔》の拡大写真は眼や衣の文様を調べる助けになるが、190.9センチの絹本を実際に見る身体的な経験とは違う。《虹を見る》を一つの小画像に収めると、二曲一双をたどる時間が短縮される。東京富士の画像を950pxから1024pxへ変えても、見えなかった細部が新しく現れるわけではない。図版の加工・寸法・出典を示すことは、鑑賞を邪魔する細則ではない。画像からどこまで言えるかを明らかにし、実物や所蔵館の資料に戻る道を残す。 [1] [17] [19]

松園は一九四八年に文化勲章を受け、翌年亡くなった。栄誉は近代日本での地位を示すが、《焔》や《序の舞》の意味を受賞から逆算することはできない。一枚一枚に戻れば、激しい感情を小さな眼の処理に集めることも、舞の力を袖の線に預けることも、日常の人が自分の行為に集中する時間を描くこともできた画家が見える。詳しい生涯は伝記へ、《焔》《序の舞》や一九三四年の《母子》は正確な作品画像を備えた個別ページへ進めたい。まずは女性像の姿勢が似て見えても、それぞれが違う問いを持つことから松園を見始めよう。 [6] [12]
よくある質問
京都で学んだ技法を用いながら、能や『源氏物語』、近代の生活、母子の関係をそれぞれ異なる女性像にしたからです。また公的な展覧会で活動し、女性画家の仕事がどう評価されるかという問題にも関わりました。「美人画家」という呼称だけでは、その主題と表現の幅を説明できません。 [3] [6]
東京国立博物館は『源氏物語』の六条御息所と説明します。松園自身は能《葵上》から着想し、金剛巌に嫉妬の表現を相談したと書いています。作品は一九一八年の東京国立博物館A-11098です。 [1] [11]
松園は松篁の妻・種子を複数のモデルの一人と記し、袖の長さも制作途中で変更したと語っています。一人をそのまま写した肖像ではなく、舞と内面の強さを表すために構成した人物像です。 [12]
違います。一九〇〇年にパリへ出した《母子》と、東京国立近代美術館が所蔵する一九三四年の《母子》(JI0007)は、構図の異なる作品です。 [22]
読者との対話
画家の回想、所蔵館の記録、後年の解釈を分けて作品を見てみましょう。
鑑賞の手がかり
眼と衣の文様は、六条御息所の姿をどう変えますか。
松園が袖の長さを変えた理由は、静止した画面の動きにどう関わりますか。
一九〇〇年と一九三四年の同名作品を、どの資料で区別できますか。
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参考文献・作品記録
- ColBase、上村松園《焔》A-11098。東京国立博物館、大正7年、絹本着色、190.9×91.8センチ。図版の個別出典。
- 京都市京セラ美術館「上村松園」展。二〇二一年の回顧展の構成と代表作一覧。
- 毛利伊知郎「上村松園の画業―近代絵画としての意義」三重県立美術館。文展、画題、京都の絵画、能、後年の解釈についての論考。
- 国立美術館所蔵作品総合目録、上村松園作品一覧。個別番号と現行の画像表示は各作品で確認する。
- 上村松園《母への追慕》青空文庫。画家自身による仲子と母子主題の回想。
- 東京文化財研究所「上村松園」年譜・物故者記事。師事、展覧会、文化勲章、没年。明らかな一九〇二年の元号誤植を転記しない。
- 京都市京セラ美術館「上村松園」展。師事と生涯を確認するための館資料。
- 国立国会図書館「上村松園」近代日本人の肖像。生涯概要と写真の出典。
- Kaoru Kojima, The Image of Woman as a National Icon in Modern Japanese Art: 1890s–1930s、ロンドン芸術大学博士論文、二〇〇六、第一巻第5.4節、印刷頁132–140。解釈と受容を参照し、作品年は別資料で照合。
- Seattle Art Museum, Uemura Shōen, Summer Evening、一九〇〇年頃、作品番号2009.70.11。作品情報のみ参照し写真は使用しない。
- 上村松園《簡潔の美》青空文庫。能《葵上》、金剛巌、泥眼と絹の裏側からの金の施しについての本人の回想。
- 上村松園《作画について》青空文庫。《焔》の制作と《序の舞》の複数モデル、袖の変更についての本人の説明。
- 上村松園《謡曲と画題》青空文庫。能の謡・画題に関する本人の文章。
- 文化庁「序の舞」作品・文化財記録。所蔵と現代の舞う女性像についての解説。画像は未許諾。
- 山種美術館「砧」作品解説。一九三八年、絹本着色、217.0×113.0センチ。写真は未許諾。
- 京都市京セラ美術館《待月》、一九二六年、絹本着色、193.2×92.8センチ。作品解説のみ参照。
- 国立美術館所蔵作品総合目録《虹を見る》150296、京都国立近代美術館、一九三二年、二曲一双。個別作品と画像の記録。
- 国立美術館所蔵作品総合目録、画像利用規約。NoC-CR表示のある個別画像について提供機関・URL・加工を記す。
- 東京富士美術館《美人観書》06546、一九四一年頃、53.0×66.0センチ。画像CC0。
- 東京富士美術館《菊寿》06547、一九三九年、66.0×72.0センチ。画像CC0。
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」画像利用。全写真をパブリックドメインとして、商用利用時も出典表記を求める。
- 文化庁/東京国立近代美術館《母子》解説。一九三四年、母の同年二月死去、一九〇〇年の別構図との区別。
- 文化庁《母子》指定解説。一九三四年作の意義についての後年の解釈。





