竹内栖鳳の生涯

著者:
Tom Gurney は美術史を20年以上研究しています。英国サルフォード大学 BSc (Hons)。
日本語版 最終更新:2026年9月25日
メール:tomgurney1@gmail.com / 電話:+44 7429 011000

京都の修業から渡欧、官展、教えた画家たちと晩年の制作をたどります。

竹内栖鳳。1910年3月掲載、撮影日未詳
竹内栖鳳。1910年3月刊行物に掲載、撮影日未詳。国立国会図書館。表示用に縮小。 画像記録

竹内栖鳳の生涯――京都の修業から昭和の展覧会まで

竹内栖鳳は元治元年11月22日、現在の暦で1864年12月20日に京都で生まれ、1942年8月23日に亡くなった。本名は恒吉。幕末に生まれた一人の画家が、明治の学校と博覧会、大正の官展、昭和の文化勲章まで経験したことになる。ただし、栖鳳の人生を制度の名前だけで並べても、なぜ彼が支持されたのかは分からない。若い日の襖絵や歴史画、記念事業の屏風、旅の後の作品、晩年の家鴨を年代の中に置けば、制作を続けながら教え、審査し、旅をした画家の輪郭が現れる。 [1] [2]

国立国会図書館の人名記録には、渡欧前の号として「棲鳳」、帰国後の号として「栖鳳」が記される。読みは同じ「せいほう」でも漢字が違う。作品検索ではこの二文字の差を見落とすと資料が分かれてしまう。一方、字を変えた事実だけから、帰国の日を境に技法がすべて変化したとは言えない。名前の変化は制作と受容を調べる手がかりであり、作品に代わる答えではない。 [1]

二人の師と、画学校のある京都

栖鳳は土田英林と幸野楳嶺に学んだ。静岡県立美術館の作家解説は、明治17年(1884)に京都府画学校の北宗画科へ入学したこと、二年後に祇園中村楼で行われたフェノロサの美術講演を聞いたことも記す。これらは京都で学ぶ経路がひとつではなかったことを示す。師の画室での稽古、学校の課程、公開の講演や展覧会が、同じ若い画家に異なる経験を与えた。フェノロサの発言を栖鳳がどのように受け取ったかについては、館の略歴の「感銘」という評価以上に、本人の具体的な言葉をここで創作しない。 [1] [4]

生涯の要点

  • 生没年1864年12月20日–1942年8月23日
  • 出生地京都
  • 師土田英林・幸野楳嶺
  • 活動京都、ヨーロッパ、中国

目次

  1. 竹内栖鳳の生涯――京都の修業から昭和の展覧会まで
  2. 二人の師と、画学校のある京都
  3. 富士川から平安神宮へ――公に見せる絵
  4. ヨーロッパで見たもの、帰国後に続けたこと
  5. 文展の審査員、絵を描く人
  6. 中国への旅と、作品の広がる経路
  7. 昭和の新文展と晩年

国立国会図書館は、明治15年(1882)の第一回内国絵画共進会での入選を記録する。静岡県立美術館の画学校入学より二年前である。入選を入学後の成果として書き換えると、実際の年譜が崩れる。若い画家は私的な師弟関係の中ですでに制作し、後から学校にも入ったと考えれば、両方の記録はそのまま読める。どの作品がその入選作だったか、現在の根拠だけで特定しない。肝心なのは、栖鳳が早くから身近な師の外へ作品を見せる機会を得たことである。 [1] [4]

楳嶺のもとで学んだことは、後年の「西洋を取り入れた画家」という紹介で薄まりがちである。円山四条派の写生を大事にする京都の環境は、渡欧以前から動物や風景を見つめる基礎を与えた。しかし流派名は、個々の作品がどう制作されたかをすべて説明しない。明治22年(1889)の《漁樵山水図》は八面の襖絵である。人が暮らす空間の仕切りを描く仕事は、一枚の紙に題材を写す練習とは規模も見え方も異なる。原設置の部屋や注文主はこの所蔵記録からは確認できないが、若い栖鳳が広い連続画面に取り組んだことは確かめられる。 [4] [6]

《漁樵山水図》、襖八面、1889年
《漁樵山水図》、襖八面、1889年. National Museum of Modern Art, Kyoto / National Art Museums Japan. 作品・画像記録. 表示用に再圧縮。

静岡県立美術館は明治28年(1895)に京都市美術工芸学校の教諭となったと記し、京都市京セラ美術館は市の学校と竹杖会で後進を育てたと述べる。学校の日本語名称と後年の英語訳を無理に一つの固有名へまとめないほうがよい。学生として複数の場を経験した画家は、教える側にもなった。同時期の栖鳳は審査や制作から引退したのではなく、歴史を題材にした作品や、京都の新しい公共空間を描く屏風にも取り組んでいる。教育と制作が並行したことが、この時期の特徴である。 [4] [2]

富士川から平安神宮へ――公に見せる絵

明治27年(1894)の《富士川大勝》は、治承4年(1180)の富士川合戦を描く。文化遺産オンラインは、水鳥の羽音に驚いて逃げた平維盛軍の場面と説明し、京都市工芸品展への出品も記す。歴史画の題材を近代の展覧会に出すこと、狩野派・四条派などの描法を組み合わせることは、栖鳳の仕事の二つの側面である。この作品は、後の動物画だけを「本当の栖鳳」とする見方を修正する。鳥は観察対象であると同時に、合戦の原因を知らせる物語上の存在だ。 [8]

《富士川大勝》、1894年、A-10566
《富士川大勝》、1894年、A-10566. Tokyo National Museum via ColBase. 作品・画像記録. 表示用に再圧縮。

翌1895年、平安遷都千百年を記念する平安神宮が建てられた。栖鳳は1896年に《円山公園・平安神宮》を制作し、記念行事に関係した役員へ贈られたと文化庁の解説にある。左隻には新しい神宮、右隻には桜の名所の円山公園。新築された建物と親しまれた公園の組み合わせは、京都の「歴史」が明治の都市事業としても作られていたことを伝える。これは屏風の用途と題材からの読解であり、画家がその言葉で計画を語った記録ではない。 [10]

《円山公園・平安神宮》左隻の部分、1896年、A-11781
《円山公園・平安神宮》左隻の部分、1896年、A-11781. Tokyo National Museum via ColBase. 作品・画像記録. 表示用に再圧縮。

同じ年の《平安神宮下絵》も東京国立博物館にある。国立文化財機構の収蔵品報告は、区画と構図から屏風左隻の原寸大下絵とみられると記す。断定しない表現には理由がある。二点の関係は強いが、下絵の一線が本画のどこに移ったかを語るには、対応部分を照合しなければならない。2013年の京都市美術館の下絵・素描展は、栖鳳の写生帖が百冊を超え、構図の推敲を重ねたと説明した。下絵の存在は「迷いなく一気に描いた名人」という語りを複雑にする。 [11] [12]

平安神宮には後年の写真も残る。国立国会図書館の《京都名所帖》は1907年6月に刊行され、その掲載写真の撮影日はそれ以前である。1896年の屏風と同じ場所を扱うからといって、栖鳳が見た位置を撮した写真ではない。屏風は二つの名所を一双に組み、写真は印刷された一ページで神宮を紹介する。その違いを明記すれば、古写真は単なる装飾ではなく、近代京都の名所が後の人々にどう見せられたかを考える資料になる。 [14] [15]

平安神宮、1907年6月までに撮影。印刷ページから切り抜き
平安神宮、1907年6月までに撮影。印刷ページから切り抜き. National Diet Library. 作品・画像記録. ページからトリミング、表示用に再圧縮。

ヨーロッパで見たもの、帰国後に続けたこと

栖鳳の渡欧は1900年から翌1901年にかけてであり、京都市京セラ美術館は1900年パリ万国博覧会を目的の一つとして挙げる。静岡県立美術館は西洋絵画の写生や光の扱いを学ぶ機会だったと評価する。後者は館の解釈であり、栖鳳の手帳からの引用ではない。三重県立美術館の英語ページにある「1895年パリ万国博覧会」という年は、これらの資料や万博の実年と合わないため採用しない。作品《虎・獅子図屏風》自体の記録は別に利用できるが、略歴の一行が正しいとは限らない。 [1] [2] [4] [16]

ローマやヴェネツィアを題材にした作品が展覧会に並ぶことから、旅が新しい素材を与えたことは分かる。しかし「西洋の特定の画家からこの技法を得た」という断定には、作品や記録をつないだ別の根拠が要る。1894年の《富士川大勝》にも複数流派の方法があり、1896年の神宮屏風には観察と大きな下絵がある。渡欧は無から変化を生んだ唯一の瞬間ではない。栖鳳はそれ以前の修業を持ったまま新しい絵と展示の場を見て、京都へ帰った。号の一字の変化と画業全体の連続を、同時に考える必要がある。 [2] [8] [10]

帰国後の《蕭条》は1904年頃の六曲一双屏風で、幸野楳嶺十周年祭の追悼展に出品されたことが京都国立近代美術館の記録に残る。冬の川辺を横へ広げた作品は、神宮と公園を示した屏風とは画題が異なる。それでも師の名を冠した展覧会へ新作を出した記録は、渡欧後の栖鳳が京都の人間関係から切り離されていなかったことを示す。故人への内心を推測する必要はない。日付のある出品記録だけで、旅と師弟の経歴が同じ人生に重なっていたことが伝わる。 [17]

文展の審査員、絵を描く人

明治40年(1907)に文展が創設されると、栖鳳は審査員に就いた。国立国会図書館の年譜がこの節目を記す。同年の第一回文展には《雨霽》も出品された。文化庁の作品記録によれば、雨上がりの柳に鷺の群れがとまり、一羽が飛び立つ姿を描いた六曲一双の墨画屏風である。栖鳳は人の作品を選ぶ立場に立ちながら、自らも鳥と風を新しい官展で見せた。1894年の富士川の水鳥が合戦の騒ぎを起こしたのに対し、ここでは天候が変わる瞬間を見せる。動く鳥という共通点から、絵の目的の違いが分かる。 [1] [18]

《雨霽》の英訳 After a Shower は混同を生む。足立美術館には同じ英語名の1928年作がある。一方、第一回文展に出た東京国立近代美術館の《雨霽》は1907年の作品である。年、所蔵館、画面の情報を確認すれば別作品と分かる。1928年作を1907年作の別刷りや改作と決めつけてはならない。こうした同名異作の整理は、長い画業をたどるページでこそ必要になる。 [18] [24]

画家の公的な肩書きは大きくなる。1913年には帝室技芸員、1937年には第一回文化勲章の受章者となった。ただし、肩書きが絵の意味を自動的に決めるわけではない。学校、竹杖会、文展・帝展で栖鳳が担った役割は、京都で学ぶ後進に発表の道を示す一方、本人にも新しい作品の選択を求め続けた。国立国会図書館は上村松園を、ひろしま美術館は土田麦僊を門下に挙げる。早い時期の師である土田英林と後年の土田麦僊を混同しない。松園の女性像や麦僊の制作は、それぞれ独立の研究対象である。 [1] [2] [5]

帝室技芸員となった1913年には、京都市京セラ美術館が所蔵する《絵になる最初》も描いた。絹本着色の掛幅に、障子を背に立つ女性が描かれる。女性は顔を隠すように手を上げ、解いた帯を足元に残し、脱いだ着物で身体を覆う。所蔵館は、青、灰、黄土色の模様が戸惑いを暗示すると解説する。ここで「人物画も描いた」という一般論を越えて、女性の動作、着物、背景の障子がどのように目を導くかを考えられる。同年の公的な肩書きと作品を並べることはできるが、肩書きのためにこの女性を描いたとまでは言えない。作品の詳細は所蔵館の記録で確認できる。 [25] [1]

竹内栖鳳。1910年3月掲載の別の肖像
竹内栖鳳。1910年3月掲載の別の肖像. National Diet Library. 作品・画像記録. 表示用に再圧縮。

中国への旅と、作品の広がる経路

静岡県立美術館は、中国への旅を1920年と1921年の二度とし、大気や色彩の表現に展開があったと解説する。京都市京セラ美術館も二度の訪中を記すが、概説では年を明記しない。旅の有無と年、画風についての館の評価は、同じ文の中でも別の種類の主張である。静岡県立美術館のデジタルアーカイブには1922年の《揚州城外》が登録される。題名から中国の場所との関係はうかがえるが、その作品を旅先のどの日に写生したかは、作品記録だけでは決められない。所蔵館の作品記録が年代を確認する手掛かりになる。 [4] [2]

作品の伝わり方も一つではない。国立国会図書館のImage Bankが公開する《栖鳳画伯筆十二支帖》は、十二支を描いた一冊の画帖である。掲載された葉が十二枚あっても、十二点の独立した本画や十二回の別の注文にはならない。屏風を前に立つ経験と、画帖の小さな紙面を手元で見る経験は異なる。教え、展覧会に出し、旅する栖鳳の絵が出版物でも見られたことは、近代の画家としての活動を考える大切な側面だ。どの葉を図版に使うかは個別の動物と画像番号を確かめてから決める。 [19]

大英博物館の所蔵検索には、1901年の《栖鳳習画帖》も載る。登録番号 1981,0805,0.1.2 のこの本は、国立国会図書館の十二支帖と同じ資料ではない。1901年という刊行年だけから、渡欧中に描いた動物の記録と考えることもできない。少なくとも、栖鳳の図が一冊の印刷物になり、後に英国の収集対象になったことは確かめられる。絵の原本、印刷された画帖、後年の所蔵記録をつなぐときは、同一の図柄であることと同一の物体であることを分けなければならない。所蔵記録は資料の来歴を追う出発点となる。 [27]

《栖鳳画伯筆十二支帖》の虎の葉
《栖鳳画伯筆十二支帖》の虎の葉. National Diet Library Image Bank. 作品・画像記録. 表示用に再圧縮。

大正13年(1924)の《班猫》は、後年の栖鳳を代表する作品として山種美術館が所蔵する。館は沼津で猫を見たことから制作へ進んだ経緯を紹介する。文化遺産オンラインの重要文化財記録は《斑猫》と書くが、別の猫を描いたもう一点という意味ではない。経験談が魅力的だからこそ、いつどこで何枚の素描をしたかまで根拠なく補わない。山種美術館の作品解説と文化財の登録記録を合わせて読むと、制作と後年の評価を分けて考えられる。 [21] [22]

米国メトロポリタン美術館の《老松鸚鵡図》は1916年の絹本着色の掛幅で、鳥と古松を細長い画面に収める。美術館への寄贈は2021年であり、栖鳳の生前の出来事ではない。年代を分けて見ると、1913年の《絵になる最初》に続く時期にも、人の身振りだけでなく動物と樹木の組み合わせを試みていたことが分かる。所蔵館記録から題名と寸法を確かめられる。 [26]

昭和の新文展と晩年

1937年の《若き家鴨》は、京都国立近代美術館の所蔵記録に第一回新文展への出品がある。二曲一双の画面に若い家鴨を置いた作品は、栖鳳が新たな展覧会制度でも制作を続けた具体例になる。同じ1937年に第一回文化勲章を受けた事実と、同年の作品・出品は、互いに意味を与える。ただし文化勲章を受けたから家鴨を描いた、という因果関係を資料なしに作ってはならない。栄誉を受けた老画家が、なお動物の間隔や画面の余白を考えていたことを、作品そのものから見たい。 [1] [23]

《若き家鴨》、二曲一双、1937年
《若き家鴨》、二曲一双、1937年. National Museum of Modern Art, Kyoto / National Art Museums Japan. 作品・画像記録. 表示用に再圧縮。

この晩年の仕事を1889年の八面襖と並べると、半世紀近くにわたる問いが見える。長い面に風景をつなぐこと、屏風に動物の体と空白を配することは違う課題だが、画面の形式を自覚して選んだことは共通する。明治の入選作から昭和の官展までを単純な上達物語にせず、学校、旅、役職と並走する制作の継続として読むほうがよい。栖鳳は1942年8月に亡くなった。没後に組まれた大規模回顧展は、その長い画業を下絵まで含めて見直す試みであり、栖鳳自身が後の「近代日本画」の区分をすべて予想していた証拠ではない。 [1] [2] [6] [23]

栖鳳の生涯を確かめるには、資料の役目を見分けることが重要である。国立国会図書館の略伝は本名と生没年、主要な就任を示す。静岡県立美術館は画学校と二度の訪中について年譜を補う。京都の回顧展は師弟関係と制作資料に光を当て、作品ごとの所蔵記録が絵の寸法と展示歴を固定する。残された資料に答えがないところを伝説で埋めずに読むと、描き、教え、旅し、審査しながら作品を作り続けた人が見えてくる。 [1] [4] [2] [12]

よくある質問

国立国会図書館の記録では1864年12月20日生まれ、1942年8月23日没。本名は恒吉である。 [1]

土田英林と幸野楳嶺に学んだ。後に栖鳳の門下となった土田麦僊は、英林とは別人である。 [1] [5]

1900年から1901年にかけて渡欧し、1900年パリ万国博覧会を見た。帰国後、号の字を「棲鳳」から「栖鳳」に変えた。 [1] [2]

京都市京セラ美術館は二度の訪中を記し、静岡県立美術館の略歴は1920年と1921年としている。 [2] [4]

異なる。東京国立近代美術館の《雨霽》は1907年、足立美術館の英語名 After a Shower は1928年作である。英語題名だけで同一視しない。 [18] [24]

読者との対話

師と学校、旅、展覧会が制作とどう重なったかを資料から考えてみましょう。

鑑賞の手がかり

修業と出品

1882年の入選と1884年の入学は、どんな学びの経路を示しますか。

旅の証拠

渡欧と訪中の年代は、どの資料で区別できますか。

晩年の制作

1937年の文化勲章と《若き家鴨》をどう関連づけますか。

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参考文献・出典

  1. 国立国会図書館「竹内栖鳳」近代日本人の肖像。
  2. 京都市京セラ美術館「竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー」2023年。
  3. 国立国会図書館「竹内栖鳳の肖像」`6463_2`・`6463_3`。出典《グラヒック》2巻6号、1910年3月。
  4. 静岡県立美術館デジタルアーカイブ「竹内栖鳳 作者データ」。
  5. ひろしま美術館「竹内栖鳳」。
  6. 京都国立近代美術館・国立美術館所蔵作品総合目録「漁樵山水図」`J00892`。
  7. 独立行政法人国立美術館「所蔵作品総合目録の利用規約」。
  8. 文化庁・文化遺産オンライン「富士川大勝」。
  9. 東京国立博物館・ColBase「富士川大勝」`A-10566`。
  10. 文化庁・文化遺産オンライン「円山公園・平安神宮」。
  11. 東京国立博物館・ColBase「平安神宮下絵」`A-12480`。
  12. 国立文化財機構「2020年度収蔵品報告」および京都市美術館「下絵を読み解く」2013年。
  13. 東京国立博物館・ColBase「円山公園・平安神宮」`A-11781`。
  14. 国立国会図書館「平安神宮」錦絵と写真でめぐる日本の名所、画像利用案内。
  15. 国立国会図書館デジタルコレクション「京都名所帖」1907年6月、ページ `R0000017`。
  16. 三重県立美術館「虎・獅子図屏風」。英語略歴の1895年パリ万博の記載は採用しない。
  17. 京都国立近代美術館・国立美術館所蔵作品総合目録「蕭条」`J00140`。
  18. 文化庁・文化遺産オンライン「雨霽」1907年。
  19. 国立国会図書館Image Bank「栖鳳画伯筆十二支帖」。
  20. 国立国会図書館Image Bank「画像利用案内」。
  21. 山種美術館「竹内栖鳳《班猫》とアニマルパラダイス」。
  22. 文化庁・文化遺産オンライン「斑猫」。
  23. 京都国立近代美術館・国立美術館所蔵作品総合目録「若き家鴨」`J00041`。
  24. 足立美術館「Takeuchi Seiho」1928年 *After a Shower* の記録。
  25. 京都市京セラ美術館「絵になる最初」1913年。
  26. メトロポリタン美術館「Parrot on an Ancient Pine(老松鸚鵡図)」1916年、所蔵番号 `2021.322`。
  27. 大英博物館「Seihō shūga-chō(栖鳳習画帖)」1901年、登録番号 `1981,0805,0.1.2`。