鷲の大きな掛軸から下絵、木版画、画帖、版本まで。河鍋暁斎のさまざまな仕事を個別の作品からたどります。

一人の画家、いくつもの画面
河鍋暁斎(1831~1889年)の作品を見始めると、何を代表作に選ぶかで作家の姿が変わる。翼を広げた鷲が猿を襲う大きな掛軸。鬼の姿を試す小さな下絵。刷り重ねた版本の見開き。宴席で筆を走らせる人々を描いた一幅。暁斎は絵画と版画の双方で活躍したが、これらを「奇想」や「戯画」という一語に収めると、媒体ごとの仕事が見えにくくなる。大英博物館の作家記録は浮世絵と古典的な絵画の双方に通じた画家として説明し、サントリー美術館の展覧会は即興的な席画だけでなく、時間をかけて構想した水墨画や着色画にも注目した。 [1] [2]
1885年の《猿を襲う鷲図》は、その広さを考える出発点になる。鷲と猿の接触は縦長の画面の下方にあり、上部には大きく余白が取られる。鳥の勢いは羽の筆線だけでなく、その前に開いた空間によって強まる。メトロポリタン美術館は本作を四幅から成る鷲の連作の一つとして記録する。絵の部分は高さ約166センチメートル。ウェブページの横長の画像枠に合わせて上部を切り落とせば、落下する動きを支える構図そのものを失う。 [3]
ひと目でわかる暁斎
- 生没年1831~1889年
- 主な活動地江戸・東京
- 主な媒体掛軸、木版画、版本、画帖、下絵
- 学んだ画系歌川国芳の浮世絵と駿河台狩野派
目次
同館はこの鷲を明治期の日本の国際的な立場とも結びつけ、従来の狩野派の美意識を離れた表現と読む。一方、サントリー美術館は暁斎が晩年の1884年にも狩野派との関係を改めて結んだことを指摘する。二つの説明は、そのまま同じ事実ではない。鷲の激しい筆遣いから時代の力を読むことはできるが、それを狩野派との関係が完全に切れた証拠とみなすのは早い。まず作品の大きさ、濃淡、空白を確かめ、その後で政治的な解釈がどこまで絵から導けるか考えたい。 [3] [2]
一枚の木版画に集まる人々
初期の年代がはっきりした作品として、《今昔未見生物猛虎之真図》に目を向けよう。メトロポリタン美術館は1860年6月の木版画と記録し、英語では「これまで見たことのない生きた猛虎の真図」という意味の題を付ける。画面の動物には斑点がある。現代の動物分類に合わせて題名だけを無言で直すより、当時何をどう呼び、どのように見せたかを作品から考える方がよい。河鍋暁斎研究コミュニティの略年譜は仮名垣魯文の口上が添えられたとする。ただし、図版の文字を詳しく訳すには判読可能な紙面を別に確かめる必要がある。 [5] [6]

木版画では、画家の下絵が彫りと摺りの工程を通って鑑賞者に届く。同じ版から生まれた摺りでも、色や位置、紙、保存状態には差がありうる。このページの画像はメトロポリタン美術館の所蔵番号2007.49.262の一点である。別の美術館の「同じ虎」を比較するときは、その館の所蔵番号や版の状態まで確認しなければならない。作品名が一致するだけで同一の画像だと考えると、暁斎の線についても印刷工程についても誤った結論に進みやすい。 [5]
1860年の一枚は、暁斎を「江戸の画家」か「明治の画家」かの二択に分けにくいことも示す。制作は明治維新以前だが、珍しい動物を見せる表題、絵と文章の組み合わせ、版元を通じた流通は、その後の版本や諷刺雑誌の仕事にもつながる。どのような機会に誰と組んだかは伝記で年代順に検討する。ここでは、独立した絵画だけが画業を形づくったわけではないことを、作品そのものから確認できる。 [5] [6]
狩野派の修業と季節の絵
暁斎は幼いころ歌川国芳に学び、その後、狩野派の前村洞和、洞白陳信に師事した。これは「浮世絵か狩野派か」という二つの伝記の選択ではなく、順に経験した修業である。大英博物館の作家記録とサントリー美術館の解説はこの順序で一致する。略年譜は1849年に洞郁陳之の号を受けたと記す。古画の臨写、安定した構図、勢いのある筆線は、その後の戯画を含むさまざまな仕事の土台になった。晩年の《暁斎画談》に歴代の画風が並ぶことも、一時期で終わらない学びを示している。 [1] [2] [6]
《五月幟図》は1870年以前とだけ年代が示される絹本の掛軸である。端午の節句に掲げる鯉幟、疫病を退ける鐘馗、鶏が画面の中で結びつく。メトロポリタン美術館は赤い鐘馗を守護的な図像として説明する。誇張された人物像を見ると、すぐに「面白い絵」と呼びたくなるかもしれない。しかし、家庭の行事で何を願って飾るかを知ると、機知だけではない意味が現れる。正確な制作年が分からない以上、「1860年代の作品」と断定するより館の「1870年以前」を保つ方がよい。 [7]

鬼や鐘馗を描けば、必ず同じ種類の戯画になるわけではない。追われる鬼、鬼を鎮める聖なる存在、祝祭に用いる守護像では、見る人の位置が変わる。サントリー美術館は聖と俗、美と醜の境界を暁斎の作品を考える軸とした。《五月幟図》では季節の行事と家の願いが絵を受け止める。形や顔の面白さを楽しむと同時に、主題と元の用途を見失わないようにしたい。 [2]
描かれた書画会
《両国中村楼書画会之図》は、暁斎が制作の場そのものを主題にした一幅である。メトロポリタン美術館の年代は「1876年頃」。略年譜には1876年5月21日に中村楼で席画を描いた記録がある。近い年代と場所を並べることはできるが、絵が必ずその日の一場面を写したとは限らず、全員の名前を画面だけから特定することもできない。多くの人が集う部屋からは、絵が語り合い、見せられ、買われる場で生まれたことが伝わる。 [8] [6]

宴席などで即興的に描く席画は、暁斎の名声を形づくった。しかしサントリー美術館は、速筆の印象だけに頼ると、練り上げた構図と緊張感のある筆遣いを見落とすと指摘する。即興と熟慮は別々の画家の仕事ではない。長年の修業によって素早く描けるようになり、その同じ力を大作にも向けられる。書画会を描いた絵を見るときは、完成した一幅としての構成と、そこに描かれた制作の行為を分けて考えると面白い。 [2] [8]
両国という地名からは川や橋が思い浮かぶが、この絵が示すのは書画会の室内である。後年の橋や川岸の写真があっても、1876年の中村楼の部屋を写したものにはならない。場所の名前だけで時代や眺めを一つに重ねず、掛軸の中の人々と制作の場をまず見よう。街の記録と絵画の記録は互いに補い合っても、同じ証拠にはならない。 [8]
このような制作の場は、個人の天才像から抜け出す入口にもなる。略年譜には作家、版元、門人、外国からの訪問者が登場し、後の絵日記には訪問や依頼を管理した痕跡が残る。中村楼の画面に映る人々を安易に名指しする必要はないが、絵画の制作や受容が人間関係の中にあったことは見て取れる。伝記では個々の人を別の証拠で確かめ、このホームページではまず、画家を囲む部屋そのものをよく見たい。 [6] [9]
下絵の鬼と版本の見開き
メトロポリタン美術館の《鬼の下絵》は、19世紀後半の紙本水墨素描である。同館は版本の挿絵のための下絵だった「ように見える」と慎重に説明する。対応する完成本が特定されていない以上、既知の『暁斎漫画』の下絵だと決めつけてはならない。旧蔵者として門人の真野暁亭が記録される点も重要で、仕事場にあった紙が後にどのように伝わったかを考える手掛かりになる。 [10]

《狂言を舞う三人》にも制作途中の情報がある。美術館によれば、暁斎自身の書き入れは彩色や仕上げの指示で、右上の印の一部は真野暁亭のもの。狂言の演技を主題とする絵の準備段階らしいが、その完成作をこの記録から名指しすることはできない。約15センチメートル×26センチメートルの紙を画面いっぱいに拡大すると大作のように見えるため、寸法も併記したい。身振りを写す線と制作上の指示を同じ紙の上で見ることで、軽やかな動きの背後に段取りがあることが分かる。 [11]

一方、1881年の『暁斎漫画』は木版で刷った本である。メトロポリタン美術館の一冊は縦約22センチメートル。デジタル画像に複数の見開きがあっても、このページで示すのは所蔵番号2013.765の一つの開きにすぎない。「漫画」という共通の語だけで現代の連載漫画と同じ形式だと考えず、手に取ってページをめくる本として見るべきだろう。特定の見開きの細かな図像は、実物画像を確認してから説明する。 [4]

下絵と版本の画像を並べれば、直接の「原画と完成図」のように見せたくなる。しかし、ここで選んだ《鬼の下絵》が『暁斎漫画』の掲載図に対応するという証拠は今のところない。比較できるのは、唯一の紙に残る試行と、彫り・摺りを経て読者に渡る本という制作条件である。将来、対応する頁や版が確認できれば、各館の画像と所蔵番号を照合して改めて示せる。対応が未証明であることは、二つの作品を見る価値を下げない。 [10] [4]
二つの烏を取り違えない
1881年の《枯木寒鴉図》は第二回内国勧業博覧会で妙技二等賞牌を受賞した。サントリー美術館は、同時に出品した鮮やかな《花鳥図》と並べ、水墨と着色の両方に及ぶ画力を説明する。受賞は、戯画を描く人が突然「本格的な」絵を始めたという話ではなく、既に持っていた技術の広さを公に示した出来事である。ここに受賞作そのものの画像はない。次に示す烏は別の作品である。 [2] [6]
メトロポリタン美術館の《木の幹にとまる烏》は、所蔵番号JP3153の木版画で、年代は付されていない。烏と木が描かれるからといって、1881年に賞を受けた肉筆の《枯木寒鴉図》と同じ作品にはならない。この図版を採用する理由は、関連する鳥の主題を木版画という別の媒体で見ることにある。キャプションには両者が異なると明記し、受賞年をこの版画の制作年へ移してはならない。 [12] [2]

この区別は細かい書誌情報のためだけではない。似た主題のサムネイルを取り違えると、読者は版画の線を肉筆の技法だと考えたり、別作品に受賞歴を与えたりする。一枚ごとに所蔵館、所蔵番号、媒体、年代の表記を残せば、主題が似ていてもそれぞれの仕事が見える。後に別の刷りや状態を比較する場合も、どの現物を見ているのかを追える。 [12] [2]
『暁斎画談』に残した画風の比較
『暁斎画談』は1887年刊の四冊本である。早稲田大学図書館の書誌は、河鍋洞郁を画、瓜生政和を編、岩本俊を出版者と記す。大英博物館は前半を画論、後半を門人の梅亭金鵞が記した伝記と説明する。したがって「暁斎が一人で書いた自伝」と呼ぶと、本を組み立てた複数の人と、木版で刊行された形式を消してしまう。画家の考えを伝える資料であると同時に、出版によって作られた明治期の作品として見る必要がある。 [13] [14] [15]
サントリー美術館は、この本に宋元の絵、雪舟、狩野派、土佐派、光琳、応挙、春信、歌麿などの古画の写しが多数載ると説明する。暁斎が過去の画家を単に並べたのではなく、画風の違いを自分の手で学び直していたことがうかがえる。メトロポリタン美術館が公開する一見開きには、狩野探幽と狩野興以の画風を示す英語の見出しがあり、人物を表す線の調子が左右で変わる。ただし、四冊中の巻・頁をまだ特定できないため、見開き一つを本全体の結論のように扱わない。 [2] [13]

英語の見出しがあることは、出版時の読者を考える手掛かりになる。大英博物館も日本語と英語の要約に触れる。ただし、英語があるから実際にどの国の誰がこの一冊を読んだかまでは分からない。版の違いや掲載頁を確認すれば、将来はもっと具体的に、暁斎がどの画家をどの順に紹介したかを示せる。今は正確に確認できる所蔵本と出版記録に基づき、古画の研究と国際的な読者を意識した本づくりの可能性を示す。 [15] [14]
小さな画帖と仕事の記録
1888年頃の《釈迦降魔図》は、メトロポリタン美術館では元は画帖の一葉、後に掛軸へ仕立てられたものと記録される。現在の姿だけを見て大きな独立の掛軸として制作されたと書けば、持ち主が手元で頁を繰った最初の形式が消える。サントリー美術館も、小画面の画帖に細やかな彩色が施されたことを展覧会の一章で取り上げた。暁斎の後期作品には、大作と小さな私的な鑑賞物が並んでいた。 [16] [2]

同館の『暁斎絵日記』JIB53は29葉から成る。暁斎は青で頁の枠や欄を刷り、予定などを墨で書き込み、常連の依頼人には印を使うこともあったという。美術館はこの資料を1888年としながら、公開する二月の頁自体には年号がないと説明する。ジョサイア・コンドルに教えた1888年二月の日付など、別の記録との照合が年代を支える。画家の生活をそのまま透明に映す窓と考えるより、仕事を整理するために自ら形を整えた記録と見る方が正確だ。 [9]
コンドルは英国出身の建築家で、暁斎に絵を学び、没後の1911年には英語の研究書を出版した。国立国会図書館にその詳細な書誌があり、三菱一号館美術館も師弟関係と本の役割を説明する。だが、その本の個々の頁を読まないまま、暁斎の技法についてコンドルが何を言ったかを引用すべきではない。ここでは出版と国際的な受容の事実を扱い、詳しい読解は伝記や今後の作品ページで検証する。 [17] [18]
画帖も絵日記も、デジタル化されると一枚ずつ検索に現れる。しかし14.76.61という番号の下に並ぶ画帖の葉は、別々の大作ではない。《猿》の一葉は1888年3月、《釈迦降魔図》は1888年頃の一葉であり、もとのまとまりを示して扱う必要がある。絵日記の29葉にも順序がある。便利なサムネイル一覧を、作品の実際の形と取り違えないために、親となる画帖や本の名称を図版に残したい。 [19] [16] [9]
「戯画」という言葉の外へ
鬼の大きな顔を見て笑うことはできる。それでも、それが護符的な鐘馗なのか、仏教の物語なのか、舞台の仕草なのかで、絵の役割は異なる。サントリー美術館は遊宴や風刺の章とは別に、聖俗や美醜の境界を考える章を設けた。《五月幟図》と《釈迦降魔図》、鬼の下絵を同じ「おかしい絵」に押し込めず、まず主題、元の形式、鑑賞者との距離を確かめたい。 [2] [7] [16]
大作は部屋の向こう側から強い印象を与え、画帖は手元の細部に目を誘い、本は頁をめくる順序を生む。同じ1024ピクセル幅の画像になっても、元の高さ約166センチメートルの鷲と、約22センチメートルの『暁斎漫画』が同じ大きさだったわけではない。作品情報の寸法を使った簡単な比較図は、この差を読者に伝えるだろう。拡大画像では筆の動きを見せ、全体画像に戻ると、その動きが画面のどこにあるか分かる。 [3] [4]
外国からの関心についても、単純な「海外が発見した」という物語にはしない。略年譜は1876年にエミール・ギメとフェリックス・レガメーが訪ね、1881年にコンドルが入門したと記す。絵日記はその後の教えと訪問を具体的な日付に近づけ、1911年のコンドルの本は没後の受容を示す。訪問、継続した師弟関係、後年の出版はそれぞれ別の出来事である。日本の展覧会資料と英国・米国の所蔵記録を照らし合わせることで、その順序を崩さずに国際的なつながりを描ける。 [6] [9] [17]
暁斎の作品は多くの所蔵先に分かれ、どれか一館だけで画業全体を代表するわけではない。サントリー美術館の展覧会には記念美術館、寺社、個人の所蔵品が集まり、大英博物館にも絵画、版画、版本がある。寺院に伝わる絵と、画帖から切り離されて飾られる一葉では、作品の歩んだ道も見る条件も違う。ここで扱った作品も、その広い歴史の一部として見たい。 [2] [1]
次にどこを見るか
鷲の掛軸では上方の余白を残し、虎の版画では文字と摺りを含む全体を見る。鐘馗の絵では節句の用途を考え、鬼の下絵では完成していない線をそのまま読む。『暁斎画談』の開きでは古画との対話を、絵日記では制作の予定を追う。それぞれの作品に同じ形容詞を当てるより、何を作り、どのように鑑賞されたかを確かめる方が、暁斎の力の広がりを示す。 [2] [1]
河鍋暁斎の生涯では国芳と狩野派の修業、1870年の逮捕、号の変化、展覧会と門人、晩年の出版を年代に沿って扱う。《枯木寒鴉図》の個別ページには受賞した原作品の確かな画像と記録が必要であり、『暁斎画談』の解説には巻・頁と版の確認が必要になる。ここで選んだ十の図版は、その先へ進むための入口である。作品名だけでなく媒体と所蔵番号を添えることで、一つの暁斎像に閉じない見方を保てる。 [2] [13]
よくある質問
読者との対話
下絵、版本、掛軸を見比べ、同じ幅のウェブ画像が隠してしまう違いを考えてみてください。
鑑賞の手がかり
鷲と猿を見る前に、上方の空白がどれほど広いか確かめてください。
『暁斎画談』の写真は四冊のどの一部分でしょうか。
木版画と受賞した水墨画を取り違えないために何を確認しますか。
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参考資料
- British Museum, Kawanabe Kyōsai artist authority, artist names, media and training.
- Suntory Museum of Art, Kawanabe Kyōsai: Nothing He Could Not Paint / 河鍋暁斎 その手に描けぬものなし, 2019 exhibition sections and object notes.
- Metropolitan Museum of Art, Eagle Attacking a Monkey / 猿を襲う鷲図, 1885, 14.76.64a.
- Metropolitan Museum of Art, Kyōsai Manga / 暁斎漫画, 1881, 2013.765.
- Metropolitan Museum of Art, Never Seen Before: True Picture of a Live Wild Tiger, sixth month 1860, 2007.49.262.
- Kawanabe Kyōsai research community, compiled chronology / 暁斎略年譜, prepared by Yamaguchi Junko from Iijima Kyoshin and exhibition catalogues; pre-1872 dates are lunar.
- Metropolitan Museum of Art, Boy's Day Carp Streamer and Shōki Banner / 五月幟図, before 1870, 2018.22.
- Metropolitan Museum of Art, Painting and Calligraphy Gathering at the Nakamurarō in Ryōgoku / 両国中村楼書画会之図, c.1876, 2023.583.34.
- Metropolitan Museum of Art, Illustrated Diary / 暁斎絵日記, catalogued 1888, JIB53; museum explanation of undated February leaf and Conder visits.
- Metropolitan Museum of Art, Preliminary Drawings of Demons, 37.119.5.
- Metropolitan Museum of Art, Three Kyōgen Dancers, 37.119.6.
- Metropolitan Museum of Art, Crow Resting on Wood Trunk, undated woodblock print, JP3153.
- Metropolitan Museum of Art, Kyōsai Gadan / 暁斎画談, four-volume set, 1887, 2013.764a–d.
- Waseda University Library, bibliographic record for Kyōsai Gadan / 暁斎画談, four volumes, Iwamoto Shun, 1887.
- British Museum, Kyōsai Gadan, volume two, 1979,0305,0.390.2; publication structure and English synopsis.
- Metropolitan Museum of Art, Shakyamuni Subjugating Demons, c.1888, 14.76.61.51.
- National Diet Library, catalogue record for Josiah Conder, Paintings and Studies by Kawanabé Kyōsai, 1911.
- Mitsubishi Ichigokan Museum, Kyōsai—Master Painter and his Student Josiah Conder, 2015 exhibition publication.
- Metropolitan Museum of Art, Monkeys, March 1888, album leaf 14.76.61.9.



