渓斎英泉

著者:
Tom Gurney は美術史を20年以上研究しています。英国サルフォード大学 BSc (Hons)。
日本語版 最終更新:2026年9月25日
メール:tomgurney1@gmail.com / 電話:+44 7429 011000

美人画、版本、風景画を、所蔵館に残る一枚の題と摺りの状態から読み解きます。

渓斎英泉《Head of a Beauty》、メトロポリタン美術館
渓斎英泉《Head of a Beauty》、1825年頃。メトロポリタン美術館 JP1070。 作品記録。

渓斎英泉を美人画の外まで見る

渓斎英泉は、文政期の美人画で知られる。横顔に近いまなざし、重なる髪飾り、手の込んだ衣装はたしかに目を引く。しかし千葉市美術館の2012年の回顧展は、美人画だけで英泉を説明しない。所蔵の今中宏コレクションを柱に約350点を選び、風景画、摺物、肉筆画、相撲絵、武者絵、版本挿絵まで示した。田辺昌子の研究も、美人画に議論が集中すると後半の画業や別の仕事が見えにくくなる、と出発点を定めている。まず一枚の図柄を「英泉らしい」で済ませず、題、媒体、出版の時期、現存する摺りの状態を確かめたい。 [1] [2]

生年には資料の差がある。千葉市美術館は1791~1848年、大英博物館やメトロポリタン美術館は1790~1848年とする。このトップページでは没年と文化・文政・天保期にまたがる活動を示し、どちらかの生年を確定した事実として押し通さない。呼び名にも「渓斎」「溪斎」「渓斉」の字形があるが、検索結果に異なる字が出るたびに別の絵師が増えるわけではない。号と署名をどう用いたかは伝記と作品同定でさらに調べる。 [1] [20] [5]

入り口にはメトロポリタン美術館の《Head of a Beauty》を置く。1825年頃とされる小さな錦絵で、顔、結い上げた髪、肩にかかる衣服が画面の多くを占める。所蔵題は人物を固有名で示していない。だから「花魁」「芸者」と決めてから顔を見るのではなく、まず何が描かれ、何が書かれていないかを分けられる。英泉の美人画を見るためのよい問いが、この無名の顔から始まる。 [5]

ひと目でわかる英泉

  • 生没年1790年または1791年–1848年
  • 主な活動江戸後期の浮世絵
  • 主な画題美人画、版本、花鳥画、風景画
  • 見る手掛かり題、落款、版元、初摺・後摺

目次

  1. 渓斎英泉を美人画の外まで見る
  2. 大首絵に現れる名前と表情
  3. 本の見開きと摺物の世界
  4. 鳥、鯉、滝に変わる画面
  5. 宿場を借りた遊女の連作
  6. 二人の絵師が描いた《木曾街道》
  7. 藍摺は古い版木も生かした
  8. 江戸の橋と後年の景色

大首絵に現れる名前と表情

田辺は初期作を菊川英山の周辺に置く。英泉が英山の父・英二の家に身を寄せたこと、早い時期の全身像には英山風の細身の美人が多いこと、落款や改印、歌舞伎の事実から制作時期を考えられることを述べる。文化九年頃とする《風流花合》の考証も、見た目が古風だからというだけではない。画中の役者に関わる出来事まで使って時期を絞る。初期と後期の違いは、顔つきの好みだけでなく、残った作品をいつの仕事と認めるかという研究に支えられている。足立区立郷土博物館も菊川英二・英山との関係を記すが、単に「英山の弟子」と書くだけでは、英二の家に身を寄せたことと両者から学んだとされることの違いが消える。人物の関係は別の伝記で細かく扱う。 [2] [21]

文政三、四年頃には英山風の整った立ち姿から離れ、国貞の生活感ある美人画にも近づいたと田辺は見る。続く文政四、五年頃の美人大首絵では、二人を画面に入れて表情の違いを際立たせる連作など、英泉自身の存在感が強くなる。これは「歌麿の次は英泉」という単純な継承譜ではない。同じ市場には英山や国貞の作品があり、絵師はそれぞれの画題と図柄で客の目を引こうとした。年代の近い大首絵でも、二人の関係を描くもの、名のある遊女を出すもの、無名の顔に寄るものを同じ説明で片づけられない。 [2]

千葉市美術館の《今様美人拾二景 東叡山寛永寺・うれしそう》は、文政五~六年頃の大判錦絵とされる。題には「寛永寺」という場所と「うれしそう」という様子が入る。「十二景」とあるから十二人を調査票のように並べたわけではない。見せたい気分、名所、当世の美人という三つの読み方を一つの題に重ねている。「うれしそう」は絵の題に込められた表現であり、人物の実際の私生活や心の状態を記録した証言ではない。作品番号2923162までたどれば、議論の対象は連作一般ではなく、館の具体的な一枚になる。 [4]

太田記念美術館の《今よふすかた》は横大判の美人大首絵で、女性が懐紙を持って顔を上げる瞬間を同館は説明する。下唇の笹紅にも触れ、同じ連作で確認される別の四図に「泉」の文字を図案化した枠と桜があると記す。正面から顔だけを並べる連作を想像していた読者には、横長の紙、持ち物、口紅、題名の枠がともに一枚の働きをすることが分かる。ただし、ここに置く制作画像は別館で権利を確認した作品であり、太田の所蔵図を許可のないまま複製しない。 [3]

米国クリーブランド美術館の館蔵品 The Courtesan Hanamurasaki of the Tsuchiya は、遊女の名と所属する家を明示する。人物名を持たないメトロポリタンの大首絵とは情報が違う。花々と衣装の間に立つ姿を見て「芸者」と総称すれば、館の確認した肩書を失う。さらに保存した高解像度画像では、袖の濃い青の区画に小さな別の人物像が見える。この小像の由来や国籍は所蔵解説で特定されていない。注釈画像では、まず衣装のなかにもう一つの像があると示し、未確認の図柄を断定しない。 [6]

花紫の錦絵を細部から読む

番号を押すと、保存した高解像度の館蔵画像から作った細部を拡大できます。全図の位置を確かめ、下の説明へ進んでください。

渓斎英泉、花紫を描いた錦絵の三つの注釈位置123

注釈画像の細部

1

髪飾りと花

髪飾りの細い線と背後の花を比べる。多くの形が顔へ視線を集めるが、持ち主の私的な感情までは分からない。

髪飾りと花

クリーブランド美術館 作品記録 1916.1163。編集部による切り抜き・縮小。

2

衣装の中の人物像

青い縁の内側に別の人物像が見える。由来や国籍は館の記録にないため、誰かを推定せず図柄の重なりを説明する。

衣装の中の人物像

クリーブランド美術館 作品記録 1916.1163。編集部による切り抜き・縮小。

3

右側の題の枠

右側の文字枠を全図に戻して見る。文字を推読せず、館が確認した人物名・連作名と照合する。

右側の題の枠

クリーブランド美術館 作品記録 1916.1163。編集部による切り抜き・縮小。

《The Courtesan Hanamurasaki of the Tsuchiya》
《The Courtesan Hanamurasaki of the Tsuchiya》 1830年代前・中期。クリーブランド美術館。作品記録 1916.1163。

クリーブランドの《Pictures of Eastern Brocade》は1820年代初め頃とされ、連作《Famous Products of Edo》に属する。女性だけを切り取れば着物の図柄が残るが、画中の文字の枠と品物に関わる題が消える。英泉の美人画は一人の姿を売るだけではなく、江戸の名物や流行を連想させる働きも持った。何の品をどう宣伝したかは枠の文字を照合してから書くべきで、英語の所蔵題から勝手に特定の店を作らない。全図で見せること自体が正確な読解になる。 [7]

《Pictures of Eastern Brocade》
《Pictures of Eastern Brocade》 1820年代初め頃。クリーブランド美術館。作品記録 1928.128。

「妖艶」「退廃的」という英泉評は、展覧会の見出しとして強い。しかし同じ語をあらゆる女性像へ当てはめれば、匿名の大首絵、花紫の名を持つ遊女、名所と気分を題にした《今様美人拾二景》の違いが消える。近くで見るべきは、視線、髪飾り、紙の向き、衣装の文様、題名の位置である。印象を語るなら、その印象がどの図に由来するのかを明らかにしたい。美人画の総称から一枚の作品に戻ることが、英泉の個性をむしろ具体的にする。 [1] [2]

本の見開きと摺物の世界

メトロポリタン美術館の《浮世画譜》は、1820年代頃の木版刷りの本三冊として登録される。展示画像に見えるのは開いた頁であり、横長の一枚絵ではない。左右の頁の間に綴じ目があり、読み手は前後の頁を繰っていく。図版を一枚ずつ検索結果へ切り離すと、この読む時間が消えやすい。英泉には版本挿絵と著作の仕事もあり、大英博物館の作者記録には多数の書物が現れる。冊子そのものの題、著者、絵師、版元の役割を分けて扱うべきで、ある見開きに英泉の名があるから本の文章すべてを彼が書いたとは言えない。 [8] [20]

《浮世画譜》
《浮世画譜》 1820年代頃。メトロポリタン美術館。作品記録 2013.675a–c。

摺物はまた別の作り方と渡り方を持つ。田辺は英泉の摺物が百点余り確認される目録を参照し、狂歌師などの依頼で作られた世界を紹介する。依頼主には料理屋の主人や藩主もいたという。注文の文化的な場が違えば、入る歌や紙、印刷の趣向も変わる。ここで「版画だからすべて店頭で同じように売られた」と言えない理由がはっきりする。今回の画像台帳にある花鳥の一枚を、詩的な雰囲気だけで摺物と分類してはいけない。個別の館蔵記録がそう同定するものを選び、歌と制作背景を読む段階で図版に加える。 [2]

肉筆画も錦絵とは区別したい。千葉市美術館の《見立女三の宮図》は絹本着色の一幅で、『源氏物語』の女三の宮と猫をめぐる図像を手がかりに解説される。「見立」は古い物語を当世の女性像へ移して見る仕組みを示す。紙に版木で刷った一枚と、絹に筆で描いた掛軸は、人物の題が近くても制作と鑑賞の条件が異なる。千葉の所蔵画像をここで再利用する権利は確認していないので、本文から作品記録へ参照を置く。書物、摺物、肉筆画の違いが、英泉の画業の広さを実体あるものにする。 [19] [1]

鳥、鯉、滝に変わる画面

美人画の衣装が密に重なる画面から、クリーブランド美術館の《Sparrows, Bamboo and Falling Snow》へ移ると、白い余白の役割が目立つ。小さな紙の中で雀と竹が斜めに交わり、雪の降る空間が残される。館は1820年代後半頃とする。「静かな晩年の作」と決めれば年代を誤る。大首絵と同じ頃にも、人の姿から離れた図柄に向き合っていたことを示す実物である。葉と雀を画面の端で切り過ぎず、紙の空きを含む全図で見せたい。 [9]

《Sparrows, Bamboo and Falling Snow》
《Sparrows, Bamboo and Falling Snow》 1820年代後半頃。クリーブランド美術館。作品記録 1930.192。

《Carp Ascending a Waterfall》では、同じ館蔵の紙が縦72.4センチに伸びる。狭い幅の中で水が下り、鯉が上る。目の動きまで縦向きに導かれるため、正方形のカードに魚の頭だけを入れると、この図の働きが失われる。館の年代は1830年代前・中期頃であり、題は鯉と滝を示す。鯉に関わる縁起や中国の故事を一般論として加えることはできても、この一枚がどの祝賀や注文のために作られたかは、個別の記録がなければ分からない。ここでは形と寸法の確かな事実から読み始める。 [10]

《Carp Ascending a Waterfall》
《Carp Ascending a Waterfall》 1830年代前・中期頃。クリーブランド美術館。作品記録 1940.1049。

メトロポリタン美術館の《Kegon Waterfall》にも滝があるが、今度は川魚ではなく岩、樹木、水の落差と周囲の空間が中心になる。縦の紙に滝を落とす点は共通でも、一方は水に抗う生き物、一方は場所の姿を問う。所蔵館はこの《Kegon Waterfall》を英泉の木版画としながら、細かい制作年を付けていない。ほかの風景画が1830年代だからといって同じ年を創作しない。題の英語から勝手に連作名や版元を補うことも避ける。 [11]

《Kegon Waterfall》
《Kegon Waterfall》 年代未詳。メトロポリタン美術館。作品記録 JP1229。

宿場を借りた遊女の連作

街道名が現れるからといって、どの絵も旅の風景とは限らない。メトロポリタン美術館は英泉の《契情道中双録・見立よしはら五十三対》に関わる五十六枚を、一冊に貼り込んだアルバムとして所蔵する。館の英文題は A Tōkaidō Board Game of Courtesans, Fifty-three Pairings in the Yoshiwara といい、画面は右から左へ閲覧するよう案内される。ここでは東海道の宿数や道中の発想が、吉原の人々を見せる仕組みに変わっている。アルバムに入った五十六枚を、五十六人が実際に宿場を旅した記録と読まない。 [22]

千葉市美術館の一枚は《契情道中双録 府中 見立よしはら五十三対 尾張屋内 園浜》と登録され、文政八年頃とされる。「府中」は道中の地名、「園浜」は吉原の尾張屋に属する人物名として、同じ長い題の別の部分を占める。名を分けて読めば、遊女本人が府中の宿で描かれたと即断しなくて済む。メトロポリタンの五十六枚がアルバムに集められた現状と、千葉の一枚の錦絵という現状も異なる。所蔵番号2893001は、その差を追う入口になる。 [24] [22]

同じ「道中」でも、こちらは名所の仕組みを別の画題へ移す見立てで、次に見る《木曾街道》は宿と道の景色を連ねる版画である。背景に旅の語があることと、風景としてその場を描くことの違いを、連作名と実物の形が教える。五十六枚の個別題や並びを調べずに一枚ずつの日本語題を作ることはできない。今回の九図には入れず、将来の版本・アルバム研究の候補として正確な所蔵URLを残す。 [22]

二人の絵師が描いた《木曾街道》

《木曾街道六十九次》は、英泉の風景画を考えるうえで避けられない。名前は宿場の数を示すが、日本橋から大津までをそろえた連作は七十図である。東京国立博物館と日本浮世絵博物館は、英泉と歌川広重の合作として紹介する。田辺は英泉の担当を二十四図とし、大英博物館の作者記録も同じ数を挙げる。広重の名だけで呼ぶと英泉の仕事が消えるし、英泉の一枚を見て七十図全部を彼が描いたとも言えない。「街道」という一本の線の上に、異なる絵師の作品が並んだ。 [2] [13] [14] [20]

メトロポリタンの《Warabi no Eki, Todogawa Watashi》は英泉作と登録され、1838年頃とされる。横長の川を舟が渡り、岸の人々との距離が画面の大きさを感じさせる。この一枚を「蕨宿の図」と短く呼ぶだけでは、渡し場が見せる移動の感覚が弱まる。反対に、今の地図へ舟の位置を一点で置けるほど精確な地誌資料とも言えない。図柄を読むことと、昔の地名を追うことは連携できるが、同じ証拠にはならない。古写真を添える場合は、写真の撮影年・地点・権利を確認し、版画と同一視点だと示唆しない説明を付ける。 [12]

《Warabi no Eki, Todogawa Watashi》
《Warabi no Eki, Todogawa Watashi》 1838年頃。メトロポリタン美術館。作品記録 JP1031。

街道の宿順と版画の刊行順も同じではない。たばこと塩の博物館は、英泉が三十一番目の塩尻を描いていることから、宿場を一番から順に出版したと考えられないと説明する。地図で作品を並べるなら「日本橋から大津への経路」と「いつ刷られたか」を別の線にする必要がある。地図の番号を刊行年月の代わりに使うと、同じ一枚の位置が資料によって食い違って見える。ここは画面の美しさだけでなく、連作の作られ方を伝えられるところである。 [15]

田辺によれば、版元は保永堂竹内孫八から錦樹堂伊勢屋利兵衛との相版を経て、錦樹堂のみへ移った。広重に交代した経緯や後摺で英泉の名が削られた例から、何らかの不和が推測されてきたという。ただし理由は分かっていない。所蔵品から確認できるのは、絵師の担当、版元の表記、落款の有無、異なる摺りの存在である。「広重とけんかしたので降板した」という物語を、資料の空白に置かない。 [2]

千葉市美術館には《第二 木曾街道 板橋之驛〈後摺〉》と《廿弌 木曾街道追分宿浅間山眺望〈初摺〉》がある。どちらも天保六~七年頃とされる一方、館は摺りの区別を題で明示する。作品の構想や最初の出版年に近い年代と、展示される紙が何番目の摺りかは、同じ欄だけでは言い尽くせない。板橋と追分という宿が違うため、この二枚だけで同じ版木の前後比較はできない。それでも「初摺」と「後摺」を省略せずに引用することで、現物を特定する習慣を示せる。両館蔵画像は現段階では研究用の参照であり、掲載画像には使わない。 [16] [17]

藍摺は古い版木も生かした

千葉市美術館は、英泉が舶来の青色顔料ベロ藍を用いた藍摺に意欲的だったと紹介する。田辺は同時代の記録をたどり、英泉の団扇絵が青一色の流行を促したという伝承を検討する。これを「英泉がベロ藍を発明した」と書き換えてはいけない。顔料の流通と作品への採用は多くの人の仕事による。画面の青が美しく見えることと、特定の現物の顔料を科学的に同定したことも異なる。画像の色だけで顔料名を決めず、館の技法記録を優先する。 [1] [2]

田辺の比較で重要なのは、藍摺が既存の図柄を別の姿で売る方法にもなったことだ。文政期の吉原の室内図《姿海老屋楼上之図》と、後の《仮宅の遊女》では、遊女の部分にほぼ同じ版木が使われ、背景や文字、色の条件が改められたとする。吉原の火災後の仮宅という新しい状況へ絵を移すため、単に青い絵の具を載せ替えただけではない。もとの落款を含む版木が残れば、署名の形だけから藍摺の刊行年を推定するのも危険になる。版画の「同じ絵」と「同じ摺り」は、この具体例ではっきり分かれる。 [2]

この話を画像で説明するには、その二つの状態の実物と転載条件が必要である。今回使えるクリーブランドとメトロポリタンの別作品を青く加工し、対比したように見せることはできない。読者には田辺の論文への参照を示し、許諾または別の公開資料を得てから注釈比較を作る。高解像度の原画像から切り出した細部があっても、それは今ある所蔵品の細部に過ぎず、存在しない前後の摺りを証明しない。 [2]

江戸の橋と後年の景色

《木曾街道》の後も風景の仕事は続く。メトロポリタン美術館の《江戸八景 日本橋の晴嵐》は1843~47年の一枚で、橋の人々と遠くへ開く景色が一画面に入る。題に「晴嵐」という八景の言葉があり、慌ただしい通行と詩的な名付け方が重なる。実際のある日の気象を正確に記録した写真ではない。図中の人の行き来を見たうえで、題が景色の受け取り方をどう変えるかを考えたい。田辺は晩年の風景画について、北斎の画面も意識しつつ、英泉がより重い筆致を版に移そうとした可能性を論じる。一作品で全ての北斎との関係を証明するのではなく、複数の実物を比べるための見方として使う。 [18] [2]

《江戸八景 日本橋の晴嵐》
《江戸八景 日本橋の晴嵐》 1843–47年。メトロポリタン美術館。作品記録 JP1283。

九図の候補を並べると、人物の大首絵から女性全身の錦絵、書物の見開き、花鳥、縦の滝、横の渡しと橋まで移動する。すべてを「英泉の代表作」と同じ重みで呼ぶ必要はない。画像の仕事は、それぞれの議論に適切な実物を示すことだ。とりわけ版画では、題、落款、版元、改印、色、寸法と所蔵番号が連動する。クリーブランドの《Woman with Papers in Mouth and Fan in Hand》には公開データで1789~1851年という奇妙な制作年欄がある。絵師の生没年から外れる広い数字を作品の年として写さず、別の確かな根拠が得られるまで年代を空ける。 [23] [20]

英泉の生涯には苦難や転職の話も伝わるが、女性の伏せた視線をそのまま本人の心情の告白にしてしまうことはできない。どの時期に誰から学び、どの職に就き、どの名を使ったかは別の伝記で資料を比べる。ここで確実に見えるのは、多種の媒体と題材に応じた仕事、そして版元と読者を含む版画の仕組みである。花紫の衣装の小像、蕨の渡し、後摺の板橋は、独立した細部として面白いだけでなく、作品を同定して初めて語れる。英泉を美人画へ閉じ込めず、同時に何でも彼の作と広げない。その二つの慎重さが、画業の大きさを正しく伝える。 [1] [2]

よくある質問

はい。東京国立博物館などは二人の連作と記し、田辺は全七十図のうち二十四図を英泉作とする。日本橋から大津までの経路と、絵師の担当や摺りの状態は別々に確認する。 [13] [2]

「六十九次」は宿場の数で、そろいには起点の日本橋が加わる。東京国立博物館と日本浮世絵博物館は日本橋から大津までの七十図として紹介する。 [13] [14]

日本の千葉市美術館は1791年、英国・米国の主要館は1790年とする。確認した館蔵資料の間で一致しないため、確定年として一方だけを採用しない。没年1848年は共通する。 [1] [20]

そうではない。田辺は以前の美人画の版木を利用し、背景や文字などを変えた藍摺の例を示す。同じ署名の形でも同時期の紙とは限らず、現存する一枚の状態を調べる必要がある。 [2]

初摺だとは主張しない。掲載候補は所蔵番号の明らかな実物だが、初摺・後摺の判定には館の個別記録が必要である。千葉市美術館は実際にその違いを作品名に入れている。 [16] [17]

読者との対話

一枚の題、画像の細部、版元と摺りの状態を確かめながら英泉の作品を読み比べましょう。

鑑賞の手がかり

人物名と題

花紫の名が分かる錦絵と無名の大首絵では、何を違う手掛かりとして読みますか。

街道と見立て

《木曾街道》の宿場図と《契情道中双録》は、地名をどう違う目的で使っていますか。

一枚の状態

初摺・後摺、落款、版元を分けて見ると、どんな疑問が生まれますか。

感想を共有する

作品の細部や、根拠となる資料を下のコメント欄で共有してください。

参考資料

  1. 千葉市美術館「浮世絵師 溪斎英泉」展。活動年代と画業の広がり、2012年の展示構成。
  2. 田辺昌子、「渓斎英泉の画業展開について」『採蓮』第15号、7–22頁。初期の年代考証、文政期、藍摺と版木の流用、《木曾街道》の節を確認。OCRの誤読は原PDFで照合する。
  3. 太田記念美術館「溪斎英泉 今よふすかた」。横大判大首絵の作品解説。
  4. 千葉市美術館《今様美人拾二景 東叡山寛永寺・うれしそう》。所蔵番号2923162、制作年と正式題。
  5. メトロポリタン美術館《Head of a Beauty》JP1070。実物の題、寸法、年代とパブリックドメインの画像。
  6. クリーブランド美術館《The Courtesan Hanamurasaki of the Tsuchiya》1916.1163。人物・シリーズ同定とCC0画像。
  7. クリーブランド美術館《Pictures of Eastern Brocade》1928.128。名物の連作と現存する一枚。
  8. メトロポリタン美術館《Picture Album of the Floating World》2013.675a–c。木版刷り三冊の所蔵記録。
  9. クリーブランド美術館《Sparrows, Bamboo and Falling Snow》1930.192。現存する花鳥図の記録。
  10. クリーブランド美術館《Carp Ascending a Waterfall》1940.1049。縦長の作品、館の年代と寸法。
  11. メトロポリタン美術館《Kegon Waterfall》JP1229。狭い制作年が記されない実物。
  12. メトロポリタン美術館《Warabi no Eki, Todogawa Watashi》JP1031。英泉作とされる渡しの図。
  13. 東京国立博物館、浮世絵展示の作品リスト。日本橋から大津までの七十図、英泉・広重の共同の説明。
  14. 日本浮世絵博物館「木曽街道六拾九次」展。二人の絵師と全七十図。
  15. たばこと塩の博物館「渓斎英泉画『木曽街道』」。塩尻と刊行順についての解説。
  16. 千葉市美術館《第二 木曾街道 板橋之驛〈後摺〉》。所蔵番号2923145。画像は研究用。
  17. 千葉市美術館《廿弌 木曾街道追分宿浅間山眺望〈初摺〉》。所蔵番号2923146。画像は研究用。
  18. メトロポリタン美術館《江戸八景 日本橋の晴嵐》JP1283。1843~47年の所蔵品。
  19. 千葉市美術館《見立女三の宮図》。肉筆画の題、技法と解説。画像は研究用。
  20. 大英博物館「Keisai Eisen」作者記録BIOG806。異体字、生年、書物・肉筆画・《木曾街道》の情報。
  21. 足立区立郷土博物館「渓斎英泉」。簡潔な日本語の伝記的記録。
  22. メトロポリタン美術館《A Tōkaidō Board Game of Courtesans》アルバム。五十六枚を収めるアルバム。英語版の補助資料。
  23. クリーブランド美術館《Woman with Papers in Mouth and Fan in Hand》1940.718。年代欄の問題を確認した実物記録。
  24. 千葉市美術館《契情道中双録 府中 見立よしはら五十三対 尾張屋内 園浜》。文政八年頃の錦絵、所蔵番号2893001。画像は研究用。