黒田清輝

著者:
Tom Gurney は美術史を20年以上研究しています。英国サルフォード大学 BSc (Hons)。
日本語版 最終更新:2026年9月25日
メール:tomgurney1@gmail.com / 電話:+44 7429 011000

《湖畔》《読書》《舞妓》《智・感・情》を、現物の記録と研究から読み解きます。

黒田清輝《湖畔》、一八九七年
黒田清輝《湖畔》、一八九七年。Source: ColBase, 東京国立博物館. ウェブ表示用に縮小。 作品記録

黒田清輝を、作品から見る

《湖畔》を前にすると、まず夏の静けさが伝わってくる。団扇を持つ女性、青い浴衣、低く続く対岸。絵の中の人は正面から鑑賞者に語りかけず、湖に面した自分の場所にいるように見える。黒田清輝(一八六六―一九二四)を「日本近代洋画の父」と呼ぶ説明は多いが、その称号だけではこの絵の涼しさがどう作られたのか分からない。黒田の面白さは、フランスで学んだ油彩と素描を、日本で暮らす人、身近な風景、展覧会で議論される身体にどう向け直したかにある。 [1] [2]

いま《湖畔》と呼ばれる一八九七年の作品は、同年の第二回白馬会展では《避暑》として発表された。初めにこの題を知ると、女性の団扇や浴衣は単なる装飾ではなく、暑さから離れる行為の一部になる。芦ノ湖と遠くの山を描いた油絵を、人物と季節を結びつける絵として見ることができる。パリ万国博覧会ではフランス語で湖辺を意味する題を持ち、現在の題名は後の定着した呼び方である。題名の変化は描かれた絵具を自動的に変えるわけではない。それでも、見る人に最初に示す視点を変える。 [11] [12] [3]

黒田の絵は《湖畔》だけで説明できない。フランスの村で本に目を落とす女性を描いた《読書》、帰国後の京都で川を背にした《舞妓》、三人の裸体を金地に配した《智・感・情》、完成作を失いながら多数の下絵を残す《昔語り》、晩年に庭を見つめた《梅林》。これらの作品は規模も描く目的も違う。室内の光を組み立てる、衣装と川面を向き合わせる、目に見えない概念を人体で表す、物語の場面を構想する――黒田は同じ技法で一つの答えを反復したのではなかった。作品の実物情報と制作の場を確かめながら、その違いをたどりたい。 [1] [2]

ひと目でわかる黒田清輝

  • 生没年1866–1924年
  • 主な活動明治から大正
  • 分野油彩、素描、教育
  • 代表作《読書》《舞妓》《湖畔》《智・感・情》

目次

  1. 黒田清輝を、作品から見る
  2. 法律を学びに行った画家が、絵を学ぶまで
  3. 《読書》――村の生活をサロンの絵にする
  4. 帰国後の京都――《舞妓》を誰がどう見たか
  5. 白馬会、「新派」、学校
  6. 《智・感・情》――三人の裸体と二つの発表の場
  7. 《湖畔》をもう一度、近くで見る
  8. 晩年の小画面にあるもの
  9. 黒田の絵を見るための、三つの手がかり

法律を学びに行った画家が、絵を学ぶまで

一八八四年、黒田がフランスへ向かった当初の目的は法律だった。東京文化財研究所の田中淳による研究は、在仏日本人画家や美術商との出会いを経て、一八八六年に絵画へ進む決心をした経緯を、手紙や日記に照らして示す。ラファエル・コランのもとでの勉強は、明るい色を好むという一語には収まらない。石膏像や古典作品による素描、人体の観察、油彩、人物を組み合わせた構想へと進む訓練があった。後年、黒田が日本の美術教育にモデルを見て描く方法を取り入れようとしたとき、その背景にあったのがこの手順である。 [2] [1]

《自画像(トルコ帽)》は一八八九年、40.5×30.7センチの小さな油絵だ。帽子の赤みと顔の陰影は、華やかな物語や国家の象徴ではなく、一人の頭部をどう画面に立ち上げるかという課題に向かっている。身に着けた帽子から、画家の政治思想や「東洋性」を読み取る根拠はない。ここでは、まっすぐこちらを向く若い黒田が、目、頬、衣服と背景の調子を一枚の中で試していることに注目したい。人物を自分の目で観察して描く基礎は、後の大画面だけに必要だったのではない。 [23]

自画像(トルコ帽)
自画像(トルコ帽) (KU-a002). 明治22年(1889). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

パリから南東へ離れたグレー=シュル=ロワンは、黒田にとって風景だけの発見ではなかった。東京文化財研究所によれば一八八八年に村を訪れ、一八九〇年七月頃から一八九二年末までビヨー姉妹の家を拠点に制作した。アメリカ、イギリス、北欧の画家や音楽家も滞在していたという。つまり、日本人学生が「フランスらしさ」を一方的に吸収した孤立した場ではなく、さまざまな出身の人が集まり、村の景色やモデルを描く場だった。そこで働き、暮らしたマリア・ビヨーは、《編物》《読書》のモデルとして確認できる。顔の分からない「異国の女性」として扱う必要はない。 [4] [2]

《編物》では、鎧戸の近くに座るマリアの手元へ光が届く。黒い服と室内の暗さは、頭や手、机上の品を見せるための重みになっている。女性は鑑賞者に向けて仕事を演じず、手を動かす時間の中にいる。研究所の解説は、この窓辺で作業する女性という構図が《読書》につながるとする。しかし二点を同じ絵の別版としてはいけない。《編物》は一八九〇年、48.7×59.2センチ、《読書》は一八九一年、98.2×78.8センチ。手の動き、見せる範囲、展覧会に向けた画面の大きさが違う。 [7] [5]

編物
編物 (KU-a029). 明治23年(1890). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

《読書》――村の生活をサロンの絵にする

《読書》の女性は赤い上衣を着て本を持ち、こちらには視線を向けない。鎧戸の斜めの線、開いた本、腕の角度が画面に動きをつくる一方、読んでいる人の集中は途切れない。光は頁と顔を同時に照らすが、部屋のすべてを明るくはしない。親しい室内場面を大きな絵として成立させようとする緊張がある。研究所は、パリ近郊の村でマリア・ビヨーをモデルに描かれ、一八九一年のフランス芸術家協会サロンに Lecture en été の題で入選したことを確認している。一八九二年には日本でも出品された。 [5] [6]

サロン入選は画家の技量への評価であると同時に、作品が公共の場で多くの絵と並ぶ機会でもあった。ハーバード大学のヘレン・スウィフトは、当時のサロンが若い画家の承認や後援を得るうえでなお重要だったことを、黒田の手紙から検討している。《読書》の成功の翌年、《婦人像(厨房)》は入選しなかった。作品の成否を一つの「西洋化」の物語に回収せず、画家自身がどの展覧会に何を出そうとしたかを見た方がよい。《読書》の穏やかな窓辺にも、サロンに出すための構成と判断がある。 [3] [6]

読書
読書 (A-10937). 明治24年(1891). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

グレー時代の作風をまとめて「印象派」と呼ぶと、絵に残る別の要素が見えにくくなる。コランのもとでの人体素描と、ジュール・バスティアン=ルパージュらに通じる戸外の自然主義的な光。田中の研究は、モネのような筆触と黒田・久米圭一郎が求めた穏やかな外光を分けて説明する。もちろん黒田が印象派の作品を知らなかったという意味ではない。《読書》が示すのは、十分に形づくられた人物と、窓から入る光をともに必要とした画家である。一つの流派名より、目の前の画面が何を優先するかが重要だ。 [2] [3]

一八九二年の《赤髪の少女》では、人物は背を向ける。木の葉の間から来る光が赤い髪に当たり、顔の表情ではなく、身体と周囲の色の関係が中心になる。ColBaseは滞仏期の作品の中でも特に印象派風の作風と記す。この記述は「黒田は常に印象派だった」という分類の証明ではなく、この一枚の光と筆致を説明する手がかりだ。《読書》の窓辺と比べれば、同じ人物画でも室内の構造を主役にするか、屋外の空気に人物を溶け込ませるかで、視線の運ばれ方が変わる。 [8] [2]

赤髪の少女
赤髪の少女 (KU-a122). 明治25年(1892). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

帰国後の京都――《舞妓》を誰がどう見たか

一八九三年に帰国した黒田は、その秋に京都で《舞妓》を描いた。ColBaseの記録は、鴨川を望む「小野亭」の舞妓「小ゑん」をモデルにしたと伝える。川面の明るさを背に、舞妓の着物には多くの色と模様が重なる。そばの人物に向けて身をひねるため、正面から衣装を披露するだけの肖像にはならない。光を背にした顔や衣服の輪郭と、川を通じて奥へ開く空間が一つの画面をつくる。《読書》と同じように窓辺の人物を描きながら、ここでは衣装と水面が強く働いている。 [9] [10]

「日本的な題材に西洋の技法を使った」とだけ言えば、作品の難しさが消えてしまう。スウィフトは、十九世紀後半のヨーロッパに既にあった芸者像を黒田が知ったうえで、京都の舞妓を描いた点を論じる。その読みでは、服装の美しさは彼女を見つめる画家の関心であり、同時に女性の身体を衣装の模様へ還元する危うさも持つ。研究者の解釈と、所蔵品台帳に記された人物・場所は分けて示したい。「小ゑん」という名前を記し、画中の動きや同席者も見ることは、彼女を単なる無名の「日本の美人」にしないための一歩である。ただし本人の気持ちは、絵だけから分からない。 [3] [9]

舞妓
舞妓 (A-11258). 明治26年(1893). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

同じ年に日本へ持ち帰った《朝妝》は、異なる反応を引き起こした。フランスで完成しサロンで認められた裸体画が、一八九五年の京都の第四回内国勧業博覧会に展示されると、公共の場で裸体を見せることをめぐり新聞などで批判が起こった。裸体が「美術」の対象になるという主張と、展示を見に来る人の社会的な規範が衝突したのである。黒田の側に議論のすべての答えがあったと決めつけるのではなく、同じ絵が展示の場所によって別の問題を帯びたことを押さえたい。完成した《朝妝》は戦災で失われた。残る資料を紹介する場合は、それが絵そのものではなく、記録や習作であることを明示する。 [2] [1]

白馬会、「新派」、学校

黒田たちの新しい絵が日本で受け止められる過程には、作品だけでなく言葉の競争もあった。東京文化財研究所の日本語論考によれば、一八九五年に黒田が滞欧作を出した明治美術会展では、新聞が明るい外光の表現を「新派」とし、従来の画家を「旧派」とする対立の図式をつくった。「紫派」と「脂派」といった呼び名まで生まれたが、画家が色を二陣営に分けていたという単純な話ではない。新聞の名付けは見る側の反応の証拠であって、個々の作品を自動的に分類する定規ではない。《読書》の大きな画面と《赤髪の少女》の戸外の光でさえ、解く問題は違う。 [2] [24]

一八九六年、黒田と久米圭一郎らは白馬会を結成し、作品を発表する場を設けた。同じ頃、東京美術学校に西洋画科が成立し、黒田は指導を担う。自由な制作を望む画家が、学校では基礎から学ぶ順序と基準をつくらなければならない。素描に始まり、モデルの観察から構想画へ進む教育は、フランスの経験を日本の次の画家へ渡すための仕組みだった。白馬会の展覧会と学校を別々の略歴項目として並べるだけでは、発表と教育が互いに支え合ったことが見えない。画家が自分の絵を試し、学生がその方法を学び、批評家と観客が新しい絵の意味を問う回路が生まれた。 [2] [24]

黒田が重視した「構想画」は、目の前にあるものを素早く写すこととは別の仕事だった。人物を配置し、物語や抽象的な意味を持つ大きな画面をつくる。《昔語り》には、京都の清閑寺で聞いた小督の話に着想を得たという黒田自身の説明が残る。制作費の援助を得て素描と油彩下絵を重ね、学生にも一枚の構想に必要な準備を示した。完成作は戦災で焼失したが、《昔語り》下絵(構図II)には人物群と木立の関係が残る。横長の小さな油彩下絵を、失われた完成作の写真のように扱わないことが大切だ。下絵だからこそ見える、人物の位置を考える仕事がある。 [2] [18]

《昔語り》下絵(構図II)(現存しない完成作の下絵)
《昔語り》下絵(構図II)(現存しない完成作の下絵) (KU-a035). 明治29年(1896). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

《智・感・情》――三人の裸体と二つの発表の場

《智・感・情》は、金色を帯びた背景の前に、一人ずつ立つ女性を三面に描いた作品である。各面は高さ180.6センチ。いまの並びを左から見ると《情》KU-a055、《感》KU-a053、《智》KU-a054であり、題名に並ぶ語順とは逆向きになる。髪を持つ身ぶり、両手を上げる姿勢、額に手を添える動作を比べれば、黒田が同じ裸体の反復だけをねらったのではないことが分かる。しかし各ポーズを「これが情の意味」と一対一で解読する確かな鍵はない。研究所も、題名と意味が当時から論じ続けられていると明記する。 [14] [15] [16] [17]

第二回白馬会展に出されたのは一八九七年。その後、黒田が加筆して一八九九年の年記を入れ、パリ万国博覧会では Études de Femmes、つまり「女性習作」にあたる題で発表された。一八九七年の展示と現在の三点の状態を、何の説明もなく同一視しない。日本での題は知性・感覚・情という観念を問い、パリの題は人体表現の研鑽を前へ出す。スウィフトの研究は、この二つの場で作品が担った仕事を検討する。油絵の表面は同じ三枚に見えても、改変と題名、観客の経験によって読み方は揺れる。 [17] [3]

情
情 (KU-a055). 明治32年(1899). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。
感
感 (KU-a053). 明治32年(1899). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。
智
智 (KU-a054). 明治32年(1899). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

左から《情》《感》《智》。三点は別々の所蔵作品で、各画像の機関管理番号と作品記録を示す。

《湖畔》と三連作は同じ一八九七年の第二回白馬会展に出された。一方は着衣の女性と芦ノ湖、他方は三人の裸体と抽象的な題。ここで「日本的」な絵と「西洋的」な絵をきれいに分けても、黒田の制作は説明しきれない。どちらも人物の体を画面にどう置くか、背景とどうつなぐか、見る人に何を考えさせるかという課題を持つ。《湖畔》は夏の経験を、《智・感・情》は見えない概念を題にした。別の解き方を、同じ展覧会の観客へ差し出したのである。 [2] [3]

《湖畔》をもう一度、近くで見る

《湖畔》の細部を見る

番号を押して拡大し、全図の位置と下の説明を照らし合わせてください。細部はColBaseの原画像から切り抜き、縮小しました。

《湖畔》の細部を見る123

注釈画像の細部

1

団扇と袖

団扇と浴衣の縞が、暑さをしのぐ身体の姿勢を結びつける。

団扇と袖

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 編集部が切り抜き・縮小。

2

水面と対岸

水面から対岸へ移る色をたどると、人物がいる場所の広さが見える。

水面と対岸

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 編集部が切り抜き・縮小。

3

顔と背景

顔の明るさは後ろの柔らかな色との関係で読む。画像から顔料の性質を断定しない。

顔と背景

Source: ColBase, Tokyo National Museum. 作品記録. 編集部が切り抜き・縮小。

《湖畔》のモデルは金子たね、後の黒田照子である。黒田が芦ノ湖で水面を描いていたところ、団扇を持つ彼女に目を留めたという話は、後年の本人の回想として研究所が紹介する。絵が約一か月かけて描かれたことも、その回想を通じて語られる。制作時の一日をそのまま録音した証言ではないが、題材が画家の計画だけでなく、湖を見に来た人の身ぶりから生まれたと伝える大切な資料だ。画中の人物を「照子夫人」とだけ記すと、制作時にはまだ金子たねであったことが抜け落ちる。後の名を添えつつ、当時の名も示す。 [12] [13] [3]

画面の上側には柔らかな山並み、中央には静かな水面、手前には浴衣の女性と石がある。青い縞の服が水の水平な広がりと交わり、団扇の丸い白さが人物を見つける目印になる。湖は写実的な地図として細部まで描き込まれていない。対岸をぼかしたまま残すことで、湿気を含む空気の距離が見える。女性の表情も、読み取りやすい笑顔や劇的な悲しみではない。見る人は近くにいるようで、彼女が何を考えるかまでは入れない。この余白が《避暑》という題の「暑さから退く時間」と響き合う。ここで述べる画面の見え方は、ColBaseの全図から確認できる観察である。 [11] [3]

さらに専門的な調査では、単純な「戸外で一気に描いた絵」とする見方を慎重に扱う必要がある。スウィフトは東京文化財研究所の二〇〇八年の保存調査を引き、独立した下絵が残らない一方で、絵具の下に木炭による構図の準備が確認されたと述べる。また、薄くつやを抑えた絵具の層と、遠景まで強い陰影を作らない処理を、夏の湿度に関わる選択として論じる。これは保存研究と研究者の解釈であり、通常のウェブ画像を拡大するだけで木炭線や塗料の成分を発見したという話ではない。注釈画像には団扇、浴衣、水面と遠景を示し、材料については調査の出典を本文に置く。 [3] [12]

題名が移った経過も近くで見る価値がある。研究所は一八九七年の《避暑》、一九〇〇年パリ万博の Au Bord du lac(湖辺)を記録する。スウィフトはさらに一九〇五年の《湖辺》、一九二六年の所蔵目録に現れる《湖畔》まで追う。すべてを「もともと《湖畔》という日本の名画」と一言で包むと、夏をしのぐ経験、場所を指すフランス語、後年の名画としての定着が同じ歴史に見えてしまう。一九六七年の切手への採用も、最初の展示から何十年も経った後の広まりである。作品が有名になった道筋を、制作の事情と分けて伝えたい。 [12] [3]

晩年の小画面にあるもの

一九〇七年に文部省美術展覧会(文展)が始まると、黒田の役割はさらに公的になった。白馬会や東京美術学校での活動に加え、審査や制度づくりに関わり、一九一〇年には帝室技芸員となる。後に貴族院議員、帝国美術院長も務めた。友人の久米圭一郎は、そうした仕事が画家としての時間を圧迫したと見た。確かに、これらを伝記で無視することはできない。しかし、小さな晩年の絵を「大作を作れなかった証拠」とだけ評価するなら、絵そのものを見ないまま結論にしてしまう。スウィフトはその単純な衰退の読みを検討し直している。 [2] [3]

一九一二年の《瓶花》では、暗い背景の前に花束と花瓶が置かれる。明るい花弁や赤みのある花が密集し、葉や器の暗さとぶつかる。ColBaseは、別の所蔵先にある《菊》の華やかさと比べ、この絵の謹直な構図と筆致に注目する。比較先の《菊》の画像を用意していないページでは、両作を見たかのような細部の断言は避ける。それでも《瓶花》一枚から、人物や歴史画以外を画家が丁寧に観察し続けたことは分かる。なお機関管理番号 A-863 はこの《瓶花》のものであり、《湖畔》の番号ではない。 [20]

瓶花
瓶花 (A-863). 明治45年(1912). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

《梅林》は二五・九×三四・八センチの板に描いた一九二四年の作品である。ColBaseによれば、黒田は療養に使った別邸の離れから庭を見て描き、これが絶筆となった。木の枝、地面、奥の淡い空間は、壮大な物語を押し付けない。病状から絵の意味を一つに決めることもできない。だが、人体の大画面を重んじた画家が身近な庭を最後の題材にした事実は、何を一枚の絵として残すかという関心が一生にわたっていたことを示す。画面の小ささと見る行為の深さは同じ尺度では測れない。 [19] [3]

梅林
梅林 (KU-a093). 大正13年(1924). Source: ColBase, 東京国立博物館. 作品記録. ウェブ表示用に縮小。

黒田の絵を見るための、三つの手がかり

第一に、人物がどこにいるかを見る。《編物》《読書》では窓のある室内、《赤髪の少女》では木々の間、《舞妓》では京都の川を望む部屋、《湖畔》では湖に近い石の上だ。背景は交換できる壁紙ではない。窓の光は本と手を照らし、鴨川は衣装の模様と別の明るさをつくり、芦ノ湖の水は団扇の涼しさを受け止める。場所を言葉で名付けるだけでなく、その場所が人物の見え方をどう変えるかを確かめれば、異なる時期の作品を同じ視線で比べられる。 [5] [9] [11]

第二に、図版と作品を同一視しない。ColBaseの拡大画像は筆づかいや構図を知る入り口になるが、油彩の厚みや保存状態を実物のようには伝えない。研究所の赤外線・蛍光撮影には別の利用条件があるため、このページの図版はColBaseのファイルに限定する。《昔語り》の下絵を失われた完成画の代わりに見せたり、一八九七年の三連作と一八九九年に加筆された現在の状態を説明なしに重ねたりしない。作品の題、制作年、画材、寸法、機関管理番号を並べるのは、飾りではなく、何を見ているのかを明確にするためである。 [18] [17] [22]

第三に、描かれた女性を題材の記号だけにしない。マリア・ビヨー、小ゑん、金子たねという名前が伝わる場合は示す。ただし名前を知ることと、その人が何を考えたかを知ることは違う。画家の構図、モデルの姿勢、作品の展覧会での役割をそれぞれ考えることが、人物への関心を具体的にする。同じ姿勢は、人物を美しい型として反復した江戸の版画や、黒田と同時代の日本画を見るときにも役立つだろう。黒田の絵を現代から見る意味は、油絵が日本で受け入れられたという結論だけでなく、その過程で誰がどのように見られたかを考えることにもある。 [4] [9] [12]

黒田記念館の特別室には《読書》《舞妓》《智・感・情》《湖畔》が集められるが、公開期間は限られている。訪問するなら、その時点の展示案内を確認したい。画面上では個々のColBase作品ページに進み、同じ年の別作品や下絵とも見比べられる。ここでたどったのは、法律留学から始まる一生の年表ではなく、絵の課題が変わる道筋である。詳しい生涯は別の伝記へ、《湖畔》《読書》それぞれの材料と受容は独立した作品ページへ進める。このホームでは、まず同じ画家の作品が同じ答えを返さないことを、十か所の図版とともに確かめてもらいたい。 [21]

よくある質問

油彩と人体素描を日本の教育や展覧会に広めただけでなく、《読書》《舞妓》《湖畔》《智・感・情》のように題材と観客が変わるたび、洋画が何を描けるかを試したからです。「近代洋画の父」は影響の大きさを示す呼び名で、黒田以前に西洋式の絵を描いた日本人がいなかったという意味ではありません。 [1] [2]

フランスのグレー=シュル=ロワンに暮らしたマリア・ビヨーです。黒田はビヨー姉妹の家を拠点に制作し、マリアを《編物》などにも描きました。《読書》は一八九一年に Lecture en été の題でサロンに入選しました。 [4] [6]

女性は金子たね、後の黒田照子です。場所は箱根の芦ノ湖。一八九七年に描かれ、同年の白馬会展には《避暑》の題で出品されました。今の《湖畔》という題は後に定着しました。 [11] [12] [3]

戸外の明るさへの関心はあり、《赤髪の少女》などには印象派風の表現が見られます。一方、コランのもとでのアカデミックな素描、サロンへの出品、人物を組み立てた構想画も制作の中心でした。作品ごとに光の使い方と構成を見る方が正確です。 [2] [8]

三枚のカンバスで成り立つ一つの三連作です。現在の並びは左から《情》《感》《智》で、ColBaseではKU-a055、KU-a053、KU-a054として各面を記録します。一八九七年に発表され、後の加筆を経て一八九九年の年記が入っています。題やポーズの解釈にはなお議論があります。 [17] [14] [15] [16]

完成作は戦災で失われました。写真、記録、下絵などを通じて研究されていますが、資料を完成した油絵そのものと同じものとして見せることはできません。このページのKU-a035は《昔語り》の油彩下絵です。 [2] [18]

読者との対話

作品の題名、制作時期、後の説明を分けて考えてみましょう。

鑑賞の手がかり

《湖畔》の題名

初出の《避暑》という題は、現在の《湖畔》と比べて見方をどう変えますか。

《読書》の空間

鎧戸、本、人物の手はどのように画面の奥行きを作りますか。

三連作

《智・感・情》を三点それぞれの作品として見ると、何が分かりますか。

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参考文献・作品記録

  1. 東京国立博物館「特別展 生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」。二〇一六年の回顧展の構成、代表作と時期区分。過去の展覧会であり、現在の展示予定ではない。
  2. 田中淳「黒田清輝の生涯と芸術」東京文化財研究所。留学、グレー、帰国後の制作、天真道場、白馬会、東京美術学校、文展と晩年についての詳細な日本語研究。
  3. Helen Swift, Cultural Crossings: Kuroda Seiki (1866–1924) and the Making of Japanese Western-Style Painting、ハーバード大学博士論文、二〇二四年。本文を確認した箇所は第1章57–85頁、第2章121–150頁、第3章161–212頁、第4章216–259頁、終章263–284頁。作品画像は転載しない。
  4. 東京文化財研究所「黒田清輝とグレー・シュル・ロワン」。村への訪問・滞在、芸術家の集まり、ビヨー姉妹の家、モデルと作品。
  5. ColBase《読書》A-10937。東京国立博物館所蔵、一八九一年、カンヴァス・油彩、98.2×78.8センチ。掲載画像の出典。
  6. 東京文化財研究所「読書」光学調査・作品解説。モデル、サロンでの題・入選、日本での展示。研究用画像の再利用条件はColBase画像と異なる。
  7. ColBase《編物》KU-a029。一八九〇年、カンバス・油彩、48.7×59.2センチ。
  8. ColBase《赤髪の少女》KU-a122。一八九二年、カンバス・油彩、80.6×64.5センチ。
  9. ColBase《舞妓》A-11258。東京国立博物館所蔵、一八九三年、カンバス・油彩、80.4×65.3センチ。「小ゑん」と鴨川の記録。
  10. 東京文化財研究所「舞妓」光学調査・作品解説。帰国後の京都での制作、作品の基礎情報。
  11. ColBase《湖畔》KU-a117。東京国立博物館所蔵、一八九七年、カンバス・油彩、69.0×84.7センチ。掲載画像の出典。
  12. 東京文化財研究所「湖畔」光学調査・作品解説。モデルの名、芦ノ湖、一八九七年の《避暑》、パリ出品、保存研究の案内。
  13. 東京文化財研究所「湖畔」代表作解説。照子の後年の回想と白馬会展の題名。
  14. ColBase《智・感・情のうち情》KU-a055。三連作の左面、一八九九年、カンバス・油彩、180.6×99.8センチ。
  15. ColBase《智・感・情のうち感》KU-a053。三連作の中央、一八九九年、カンバス・油彩、180.6×99.8センチ。
  16. ColBase《智・感・情のうち智》KU-a054。三連作の右面、一八九九年、カンバス・油彩、180.6×99.8センチ。
  17. 東京文化財研究所「智・感・情」光学調査・作品解説。一八九七年の出品、一八九九年の加筆と年記、パリでの題、解釈上の論点。
  18. ColBase《昔語り》下絵(構図II)KU-a035。一八九六年、カンバス・油彩、41.1×63.3センチ。失われた完成作の画像ではない。
  19. ColBase《梅林》KU-a093。一九二四年、板・油彩、25.9×34.8センチ。療養中の庭の景と絶筆についての記録。
  20. ColBase《瓶花》A-863。一九一二年、カンバス・油彩、78.8×71.2センチ。《湖畔》と誤認しない。
  21. 東京国立博物館・黒田記念館特別室の作品一覧。代表作四件と機関管理番号。展示日程は個別に現在の案内を確認する。
  22. ColBaseの公式FAQと東京文化財研究所の黒田画像利用案内。ColBase掲載画像の出典表示・加工表示と、別の研究所画像の申請条件を区別する。
  23. ColBase《自画像(トルコ帽)》KU-a002。一八八九年、カンバス・油彩、40.5×30.7センチ。
  24. 東京文化財研究所「黒田清輝について」。洋画・白馬会・教育・構想画の要約。同研究所の日本語「生涯と芸術」は新聞による「新派」「旧派」「紫派」等の呼び名を検討する。