《檜図屏風》から葡萄図、水墨画、洛中洛外図まで。狩野永徳の作品を形と帰属から読みます。

永徳の作品を見る前に
狩野永徳(1543–1590)の絵は、額縁の中だけで完結するとは限らない。襖は部屋を仕切り、屏風は空間の中で立ち、見る人が移動すると画面の継ぎ目や光の当たり方が変わる。大きな樹幹が数面を横切る《檜図屏風》を見るとき、樹木の姿だけでなく、どのような場所に置かれた絵だったのかを考えたい。東京国立博物館は、この国宝が現在の屏風になる前には引手のある障壁画だったことを説明している。 [1] [2]
ひと目でわかる永徳
- 生没年1543–1590年
- 活動室町時代末から桃山時代
- 主な形式襖絵、屏風、水墨画
- 重要な所蔵先東京国立博物館、米沢市上杉博物館、皇居三の丸尚蔵館
- 注意点本人作、工房作、後代の帰属を区別
目次
永徳が描いたと伝えられる城や宮殿の内部の多くは残っていない。京都国立博物館の展覧会回顧も、誰もが永徳の真筆と認める現存作が多くないことを指摘する。したがって「狩野派の絵」「永徳の様式」「かつて永徳作とされた絵」を、本人作と同じ欄へ並べるべきではない。ここでは作品記録の帰属を保ち、形と材料から比べられるものを比べる。屏風の見方を先に学べば、失われた城の壁面を勝手に再現せずとも、彼の画業の大きさが見えてくる。 [3] [4]
《檜図屏風》の大きさと仕立て
《檜図屏風》では太い幹が画面を横断し、枝は右へ左へ伸びる。金色の地に青みを帯びた岩と水が入り、色の少ない部分と鮮やかな部分が交替する。樹木は一枚の「絵」だけに収まらない。屏風の折れ目に沿って視線を移すと、幹の重さと枝先の軽さを別々の速さで感じられる。東京国立博物館はこうした大画面の力を「大画」として説明し、檜が屏風からはみ出すような迫力に注目する。そこに永徳の表現を見いだせるが、現状の八面の区切りを制作時から同じだったと決めつけることはできない。 [1]
現在は四曲一双として伝わる。襖の引手の痕跡は、絵が開閉される建具に属していたことを示す。修理で裏面から確認された雲母を使う桐文様の紙は、八条宮邸の紙との関係を強めた。ただし、どの襖がどの部屋のどの位置にあったかを示す完全な配置図ではない。宮邸の完成は1590年12月とされ、永徳は同年9月に没した。完成した御殿を本人が見たという物語を添えるより、彼の晩年に計画された空間の絵として理解する方が史料に忠実である。 [1] [6]
襖から屏風への改装は、絵の鑑賞条件を変えた。屏風は部屋の中に自立し、折れ目の角度を変えられる。一方、襖は柱や敷居との位置関係、開いた時と閉じた時の見え方を持つ。画面の継ぎ目をよく観察することはできても、元の部屋を現在の展示室へそのまま移したことにはならない。二隻の写真を一枚ずつ示すのは、作品を二点に数えるためではなく、現在の二隻が一つの作品としてどう呼応するかを確かめるためである。 [1] [5]


金地の樹木と葡萄
金箔は富や権威を示すが、見る条件もつくる。部屋の光を受ける広い地があるから、離れて見る樹幹や葉のまとまりも際立つ。金地の絵をすべて同じ「豪華さ」としてまとめると、各作品の配置の違いを見失う。《檜図屏風》では大きな一本の木が中心となる。他方、スミソニアン国立アジア美術館が永徳作とする二つの葡萄の屏風では、葉、実、蔓、棚が六曲の長い面を別のリズムで埋める。植物という共通点があっても、一つの連作の断片ではない。収蔵番号と作品記録を分けて見る必要がある。 [4] [7] [8]
《葡萄図屏風》では蔓が画面を渡り、葉と房が広がる。隣の面へ続く形と、一面だけでもまとまる形の間に緊張がある。《竹棚葡萄図屏風》では支えとなる竹の棚がよりはっきり見え、自然の成長と人が組んだ構造が同時に描かれる。屏風を折れば、同じ房の位置も観客に対して変わる。写真では六面を平らに並べて比較できるが、もとの屏風が持つ奥行きまで消して考えない方がよい。この二点は同館が直接永徳の名で登録している。後に示す「永徳様式」の藤の絵との帰属差も重要である。 [7] [8] [9]
《竹棚葡萄図屏風》は1904年にフリーアが山中商会を通じて購入したと所蔵館が記録する。これは現在の作品へ至る来歴の一部であり、16世紀の制作場所を示すものではない。日本の寺院や博物館に残った作品と、海外へ渡った屏風を一緒に見ることは有益だが、現在の所蔵地をもとの設置地に読み替えない。 [8]


物語を描く六曲屏風
永徳の金地作品には樹木だけでなく物語もある。スミソニアンの《明皇・楊貴妃図屏風》では、開かれた建物の人物群と花の咲く庭が一続きの画面をつくる。同館は白居易の『長恨歌』に由来する主題と、平安朝以来の日本での受容を説明する。したがってこれは唐代の宮廷を撮影したような記録ではない。16世紀の日本の画家が、広い屏風の上で中国の文学的な物語を再構成した作品である。人物の場面だけを切り抜くと、庭や金地が物語を部屋の中へ開く働きが見えにくい。 [10]
一方、『源氏物語』という日本の古典を描く仕事も永徳の活動範囲にあった。メトロポリタン美術館とイェール大学出版局の図録で木下京子は、1574年の上杉謙信への贈答に《洛中洛外図》とともに源氏物語の屏風が含まれたとする17世紀の記録を紹介する。その屏風の所在は現在わからない。同じ論考が扱う、八条宮邸にあった可能性のある源氏絵は「永徳と工房に帰属する」現存作であり、失われた贈答品と同一だとする証拠ではない。中国の故事と日本の物語をともに扱った仕事の幅を示すには、帰属と伝来を分けたまま読む必要がある。 [11]

《唐獅子図屏風》は二隻とも永徳作か
豪壮な永徳像を語る際に《唐獅子図屏風》は欠かせない。ただし皇居三の丸尚蔵館の現在の一双は、右隻を永徳、左隻を後の狩野常信とする。大きさの近い二隻を同時に見ると統一された絵に見えるが、制作の時期も作者も同一ではない。東京国立博物館も、永徳の獅子が初めから現在の組み合わせと形で存在したとは限らないことを述べる。勇壮な獅子の形に目を奪われるだけでなく、後代の常信が画面を増補し、祖先の作品を伝える形を変えた歴史を見たい。 [12] [13]
一双を一つの作品名で呼ぶことは便利だが、作品名と作者名は別の情報である。右隻と左隻の所蔵館の帰属を明記すれば、どこまでを永徳の手で考えられるかがわかる。これは後継者の絵を価値の低い模写と見るためではない。後代の加筆・組み合わせによって一つの作品が今日の姿になったこと自体が、狩野派の歴史を示す。現在の画像の使用条件をこのページでは確認できていないため、同じ主題の別の絵を《唐獅子図屏風》と呼んで代用しない。 [12]
水墨画の永徳
東京国立博物館の《許由巣父図》は、永徳作として収蔵される二幅の水墨画である。許由は支配者になる誘いを拒み、耳を洗う人物として、巣父はその水を牛に飲ませまいとする人物として伝えられる。人物の姿、流れる水、牛の向きの関係をたどれば、中国の隠逸の故事を読むことができる。金地に大きな幹を置く屏風と違い、少ない墨と余白に視線が集中する。同じ画家の幅を考えるには、獅子や樹木だけでなく、こうした語りのある水墨画が必要である。 [14] [15]
今は掛幅であるが、その形が永徳の時代から続いていたわけではない。国立文化財機構の解説によると、常信が1694年に模写したときは二曲一双の屏風だった。その後の仕立て直しによって現在の二幅となった。また『信長公記』に記される安土城の《許由巣父》の絵は焼失した別作品である。題材が一致しても、東京国立博物館の二幅を「安土城から運び出された掛軸」と呼ぶことはできない。 [16] [14]
京都国立博物館は《仙人高士図屏風》の人物の顔や筆の扱いを東京の《許由巣父図》と比較し、永徳の関与を考える。同館の文章が示すのは、似ているという印象だけではなく、どの部分の描写を比べるかという帰属判断の方法である。ただしその比較から直ちに、画面の全てが本人の筆だと断定することはできない。東京の作品を確かな基準点にし、京都の作品の判断は同館が示す程度の留保を保って紹介したい。 [17]


洛中洛外を描く屏風と注文主
米沢市上杉博物館の上杉本《洛中洛外図屏風》は、数多くの建物、人、行事を京都の一対の画面へ組み込む。京都国立博物館の展覧会資料は1565年の作品とし、人物数を2,485人と数える。東京国立博物館が指摘するように、1574年に織田信長が上杉謙信へ贈ったという伝承と、最初に誰が注文したかという問いは同じではない。後の贈答の記録を見ただけでは、制作の開始まで決められない。 [18] [19] [20]
日本の研究では、将軍足利義輝がより早い段階で注文したとする説がある。下川雅弘は建物や行列の読みを政治状況と結び、1563年末から1564年頃の注文を提案した。ただし本人も、それ以前の可能性と注文主の推定であることを記す。画面内の一人を上杉謙信だと確定して、実際の会見の写真のように説明することも避けたい。この屏風は永徳の画業を考える重要作であると同時に、都市の描写をどう歴史資料として読むかを問いかける。所蔵館の作品記録と研究上の異説を併記することが、その面白さを減らすわけではない。 [18] [21] [20]
狩野派を永徳一人にしない
大きな障壁画の伝統を永徳一人の発明とすることはできない。祖父元信の大徳寺大仙院《四季花鳥図》は1513年の襖絵に由来する。京都国立博物館は、季節が右から左へ移り、松、滝、岩、水、鳥が横長の部屋に合わせて配置されたと説明する。明代中国の絵画を参照しつつ、日本の建具の形式に適応した作品である。この先例を知ると、永徳の《檜図屏風》に見える大樹と金地の選択を、既にあった狩野派の構成を強め、変えた仕事として考えられる。 [22] [1]
永徳の死後、長男光信が工房を継ぎ、弟宗秀、次男孝信、弟子山楽もそれぞれ別の役割を担った。京都国立博物館の光信《四季花鳥図屏風》には、永徳も使った「州信」印がある。しかし同館は作風から光信の作品と判断している。印が一つあるだけで、後代の屏風を父の真筆へ変えることはできない。家族が共有した仕事、様式の継承、個々の作者の判断を分けることこそ、狩野派の豊かさを見る方法になる。 [23] [24]
スミソニアンの《藤竹棚図屏風》の記録は「狩野永徳様式」とする。葡萄の屏風と並べれば、金の使い方や植物の広がりを比べられる。ただし見た目が近いことは、同じ手が描いた証拠にはならない。比較図として載せる理由と帰属を明記すれば、影響や工房を読む手がかりになる。ここまで見た檜、葡萄、物語、水墨、都市の屏風を一つの「桃山の豪華さ」へ溶かすのではなく、各作品の現在の形、所蔵記録、伝来と見方を並べてこそ、永徳の働きが具体的になる。 [9] [3]

よくある質問
いいえ。所蔵館は右隻を狩野永徳、左隻を後の狩野常信の作としています。一双という現在の形は、二人の画家と時代を含む歴史を持ちます。 [12]
読者との対話
永徳の絵を、現在の形と制作当初の場所の両方から考えてみてください。
鑑賞の手がかり
《檜図屏風》の現在の継ぎ目は、元の襖について何を示し、何を示しませんか。
《唐獅子図屏風》の右隻と左隻を別々に帰属すると、作品の歴史はどう変わりますか。
永徳作の葡萄と「永徳様式」の藤を、どこまで比べられますか。
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参考資料
- 東京国立博物館《檜図屏風》、A-1069。
- メトロポリタン美術館「狩野派」。
- 京都国立博物館「狩野永徳展の物語」。
- メトロポリタン美術館《Appreciation of Painting》、狩野派作品と永徳の影響。
- ColBase《檜図屏風》、個別画像の元資料。
- 東京文化財研究所《檜図屏風》修理報告。
- スミソニアン国立アジア美術館《Grape Vines》、F1903.242。
- スミソニアン国立アジア美術館《Fruiting Grapevines on a Bamboo Trellis》、F1904.353。
- スミソニアン《Blossoming Wisteria on a Bamboo Trellis》、F1897.26、「Style of Kanō Eitoku」。
- スミソニアン国立アジア美術館《The Chinese Emperor Minghuang and His Concubine Yang Guifei》、F1900.10。
- Kyoko Kinoshita, “Evolving Iconographies,” The Tale of Genji: A Japanese Classic Illuminated、メトロポリタン美術館・Yale University Press、2019年、63頁。本文を確認。
- 皇居三の丸尚蔵館《唐獅子図屏風》、SZK002944。
- 東京国立博物館《唐獅子図屏風》展示解説。
- ColBase《許由巣父図》、A-10598、二幅の元画像。
- 東京国立博物館《許由巣父図》展示記録。
- 国立文化財機構《許由巣父図》作品解説、本文のみ参照。画像の転載元とはしない。
- 京都国立博物館《仙人高士図屏風》。
- 京都国立博物館・狩野派展資料、上杉本の制作年、人物数、注文主説。2027年開催予定の展覧会資料。
- 米沢市上杉博物館・上杉本《洛中洛外図屏風》。
- 東京国立博物館・上杉本《洛中洛外図屏風》研究解説。
- 下川雅弘、「『上杉本洛中洛外図屏風』の注文時期とその動機に関するノート」、『駒沢女子大学研究紀要』22、2015年、69–84頁。論文本文を確認。
- 京都国立博物館・狩野元信《四季花鳥図》。
- 京都国立博物館「永徳の後継者たち」。
- 京都国立博物館・狩野光信《四季花鳥図屏風》、A甲2017、「州信」印と帰属判断。



