一本の檜の画面から、襖と屏風の歴史、平成の修理で見つかった証拠まで。

大きな檜を前に
東京国立博物館の国宝《檜図屏風》では、一本の檜が画面のほとんどを占める。太い幹は折れ曲がり、枝は金地へ伸びる。足元には青い水と岩が広がる。遠くに山を重ねて奥行きを作る風景画とは違い、木の量感が見る人の側へ迫るように感じられる。金の余白は単なる飾りではない。入り組んだ枝と葉を見分けるための明るい場所にもなっている。画面から受けるこの印象と、作品を支える建具の歴史を合わせて考えると、檜の姿はさらに面白くなる。 [1] [2]
ひと目でわかる《檜図屏風》
- 作者狩野永徳(1543–1590)
- 制作天正18年(1590)
- 現在の形四曲一双の屏風
- 元の形四面の襖
- 所蔵東京国立博物館・A-1069
目次
所蔵番号はA-1069。東京国立博物館は狩野永徳筆、天正18年(1590)の紙本金地着色とし、現在の形を四曲一双と記す。表具を除く一隻の大きさは縦170、横230.4センチメートルである。ただし、初めから「二隻の屏風」だったわけではない。画面には引手金具の跡が残り、もとは四面の襖だったと考えられる。その後、八曲一隻の屏風へ改装され、2012年から2014年にかけての本格修理で現在の四曲一双となった。異なる時代の図版で「八曲」と「四曲一双」の両方を見るのは、作品名が揺れているからではなく、同じ絵の装いが変わったためである。 [1] [3]
左隻の水、右隻の幹
現在の並べ方で左側に置かれる隻は、金地と水の広がりが目立つ。右端から細長い枝が左へ伸び、葉の小さな塊がその動きにリズムを付ける。水際は整った水平線ではない。金の縁が青へ食い込み、緑青色の岩や低い岸がその境界を崩す。枝を目で追ってから足元の水へ戻ると、一隻の中にも大きな形と細かな描写の往復があることに気付く。ここで述べる左右と細部は、ColBaseの現在の二隻の写真を観察した記述であり、当初の部屋でどちらの襖がどこへ付いたかを復元するものではない。 [4]
右隻では幹が主役になる。画面の上下で切られた巨体は、幾度も向きを変え、横へ太い枝を伸ばす。赤みのある樹皮に暗い線が走り、淡い斑点が表面を変える。緑の葉は均一な輪郭でまとめられず、枝の周囲に密度の違う群れを作る。屏風の縦の折り目は、その流れを区切ると同時に、次の面へ視線を促す。木を一枚の平面に閉じ込めるのではなく、いくつもの面を越えて動かす構成である。写真を小さく表示すると幹の強さが先に見えるが、葉や樹皮を詳しく見れば、その強さが細部の変化に支えられていると分かる。 [4]
水は檜の下に添えられた単色の帯ではない。左隻では青の濃淡が移り、明るい筋や岩の割れ目によって流れの向きが変わるように見える。右隻の岸は幹を受け止め、木と水の境界をつなぐ。国立文化財機構の解説は、水に群青が使われ、葉の色はかつてさらに豊かだった可能性を指摘する。ただし、ウェブ用の画像から絵具の成分や当初の全色彩を独自に鑑定することはできない。現存する色の対比を説明することと、失われた色を断定的に再現することは別である。 [2] [4]

金地も、ただ豪華さを表す背景と見るだけでは足りない。水の上の広い空間では枝の細さがはっきりし、幹の背後では曲がる輪郭を読みやすくする。枝葉や岩をこれ以上増やせば、巨樹の動きはむしろ見えにくくなるだろう。東京国立博物館の修理パンフレットは、描くものと色数を絞ったことが檜の存在感を強めると説明する。一方、金がいつ、どんな室内光を受けたかは元の部屋が分からない以上、再現できない。現在の写真で見える余白の働きと、当初の建築体験についての推測は分けたい。 [3] [4]



屏風の前にあった襖
引手金具の痕跡は、この絵がかつて引いて開け閉めする建具だったことを示す。襖なら、見る人の位置や建具の開き方で、木の見える範囲が変わったはずである。しかし金具の跡だけから、部屋の正確な広さ、光の入り方、四面が付いた順番まで言うことはできない。現在の四曲一双は絵の姿を詳しく見せてくれるが、元の座敷をそのまま再現したものではない。障壁画を読むときは、画面の連続だけでなく、その連続が一度失われ、別の支持体に移されたことにも目を向けたい。 [1] [3]
作品は八条宮家、のちの桂宮家に伝わった。東京国立博物館は、豊臣秀吉が造営を命じた八条宮邸の襖に由来すると推定している。邸の完成は1590年12月、永徳の没月は同年9月である。晩年の仕事が完成前の御殿のために進められたとしても、永徳が完成した邸を見たと語ることはできない。また、どの部屋のどの位置に四面があったかは確定していない。確かな日付は、可能性を狭めるために使い、物語を補うためには使わない。 [1] [3]
永徳は安土城などの壮大な室内画で知られるが、その多くは建築とともに失われた。メトロポリタン美術館は、彼の大画面が桃山期の有力者の壮麗な室内に合っていたと位置付ける。《檜図屏風》が貴重なのは、失われた安土城の絵の一部だからではない。大きな建具を舞台にした永徳晩年の表現を、残った実物から考えられるからである。城郭画の名声を作品の来歴に勝手に移し替えれば、せっかく残った襖自身の歴史が見えなくなる。 [7] [1]
京都国立博物館の中部義隆は、2007年の永徳展を振り返り、聚光院の障壁画と晩年の《檜図屏風》に通じる生動感を論じた。檜の枝が動物のように広がるという鑑賞も提示している。これは展覧会を通して作品を比較した学芸員の見方であり、聚光院の画面が檜図の下絵だったという意味ではない。寺院の墨画と金地の御殿画を比べれば、永徳の表現を単に「大きくなった」とするより、画面の形に合わせて動きを作る方法が見えてくる。 [8]
修理が変えた現在の見方
襖から八曲一隻へ改装された後、画面の継ぎ目にはずれが生じていた。支持する下張りにも、亀裂、浮き、変形があり、色の部分には擦れや剥落があった。展示を続けるためには、見栄えだけでなく安全な扱いが必要だった。東京国立博物館は2012年10月から2014年3月まで約18か月かけて本格修理を行い、下張りを安定させ、傷んだ部分を直し、汚れを軽減した。修理後の姿は2015年に公開された。「きれいになった」という一言より、なぜ支持体と継ぎ目に手を入れたかを理解するほうが、作品を見る助けになる。 [3] [6]
修理では襖へ戻す可能性も検討されたが、最終的には四曲一双の屏風が選ばれた。失われた御殿を持たない博物館で、四面の襖を「元どおり」に設置することもまた現代の再構成である。二隻の屏風なら、画面の流れに注意しながら安全に保管し、展覧会では開いて見せられる。八曲一隻で生じていた不自然なずれも改善できる。とはいえ、現在の二隻が永徳の描き終えた瞬間へ完全に戻ったわけではない。三つの形にはそれぞれ時代と根拠がある。「四面の襖→八曲一隻→四曲一双」と図解するときも、直線的な進歩の物語にしないほうがよい。 [3]
寸法にも表具の違いが表れる。現在の所蔵記録は一隻を縦170、横230.4センチメートルとする。修理パンフレットには表具込みで縦175.5、横236.0センチメートルともある。数字は矛盾しない。何を測っているかが違うのである。いずれも、元の四面が付いた部屋全体の寸法ではない。古い図版の「八曲一隻」という説明と同じく、寸法にはいつの姿をどう測ったかが必要になる。 [1] [3]
作品の形の変遷
引手の跡から推定できる元の襖と、修理で確認された二つの屏風の形を区別する。図は元の部屋の再現ではない。 [3]
四面の襖
引手金具の痕跡
八曲一隻
修理前の屏風
四曲一双
2014年の修理後
絵の裏から分かったこと
修理で本紙の裏を調べると、「一」から「八」までの数字と、いくつかの面に「山水」「檜」と読める墨書があった。これらは絵の扱われ方や改装を考える手掛かりで、永徳の署名ではない。表の檜だけを見ていると、作品の来歴を絵柄から推測したくなる。裏の文字は、支持体そのものに残る別の種類の証拠である。ただし、文字の存在から誰が最初の注文主だったかまで一直線には決められない。 [3]
さらに、裏側には雲母で刷った五七桐文様の唐紙の痕跡が見つかった。修理担当者は、その形や大きさ、文様の散らし方を、宮内庁三の丸尚蔵館の《花鳥図屏風》や桂離宮の襖の唐紙と比較した。共通する特徴は、この絵と八条宮家の関係を、伝来の話だけでなく素材からも考える根拠になる。一方で、同じ文様があることと「元の部屋が特定された」ことは同義ではない。裏紙、引手の跡、家に伝わった記録という複数の手掛かりが重なる範囲で述べるのがよい。 [3] [6]
現在の裏には、この調査を踏まえて新たに作られた唐紙が使われている。桂離宮の襖紙を刷った古い版木が保存されており、宮内庁京都事務所の協力を得て、修理のための文様を制作できた。歴史を尊重した選択ではあるが、2010年代に新しく作った紙を1590年の現物と呼ぶことはできない。古い素材、修理時に発見した痕跡、修理時に加えた新しい材料の三者を分けると、作品の「裏側」の価値が分かる。修理パンフレットには図版があるが、掲載画像をそのままサイトへ転用できる権利は確認していないため、本文か独自の簡略図で説明する。 [3]
葉と幹をもう一度見る
画面の淡い斑点を一括して「剥落」と名付けるのは慎重にしたい。絵として描かれた表面の変化、現存する彩色、摩耗などが、小さなウェブ画像では似て見える場合がある。修理記録は色の剥落や擦れがあったことを示すが、ColBaseの一つ一つの斑点について判定しているわけではない。注釈画像では、読者が見る位置を示し、観察できる形と資料に基づく解釈を分ける。拡大した画像を付けても、根拠以上の材料分析を行ったかのように見せない。 [3] [4]
筑波大学の2024年の博士論文審査報告は、近本祐紀子による研究の第2章が《檜図屏風》を取り上げ、檜葉の絵具の盛り上げと奥行き、大きな幹や枝を横長の画面へ置く効果を検討したと要約する。ここで確認したのは審査報告であり、論文本体の細かな観察結果ではない。それでも、枝の「力強さ」だけで終わらず、葉の厚みや密度が空間の見え方をどう変えるかという問いを与えてくれる。作品を見る際には、右隻の幹から葉の小さな群れへ、そして左隻の長い枝へ目を移してみたい。 [10] [4]
狩野派の後続作を考えるときも、この檜を何にでも付けられる「永徳らしさ」の印としては扱わない。河合正朝は1979年の論文要旨で、妙法院の大きな松の襖と永徳の《檜図屏風》などを比較し、幹、岩、金地の空間の扱いの違いから、妙法院の松を弟・宗秀の仕事と考えた。宗秀説は河合の見解で、東京国立博物館の檜を宗秀作とするものではない。巨木の型が後の狩野派に受け継がれても、具体的な筆遣いや空間の作り方を比べなければ個々の帰属は決められない。 [9]
檜の細部をみる
番号を選ぶと細部へ進む。画像を開かなくても下の説明を読める。
狩野永徳《檜図屏風》、東京国立博物館 A-1069。 画像:ColBase。番号は編集部による注釈。切り抜き・縮小。
残された絵の、残された問い
東京国立博物館は《檜図屏風》を永徳作として登録している。引手の跡は襖だったことを、桐文様の紙は八条宮家との関係を、家から皇室、博物館への伝来は近代以降の移動を教える。それぞれが違う問いへの証拠であり、裏の番号を「永徳の落款」へ変えることはできない。八条宮家の家系が絶えた1881年に皇室へ移り、1920年に東京国立博物館へ伝わったという経路も、初めの部屋まで完全に埋めるものではない。分からない部分を残したままでも、作品の帰属、晩年の年代、現在の姿を十分に説明できる。 [1] [3]
この作品の見どころは、巨樹の迫力だけではない。四面の襖に描かれた絵が、一隻の屏風を経て二隻になり、その過程が修理で記録された。木、水、岩、金の広い配置は現在も強いが、目の前の継ぎ目は1590年からそのまま置かれていたものではない。左隻の水を眺め、右隻の幹を追い、二隻の間に視線を渡すと、描く力と物としての時間を同時に感じられる。檜の生命感を伝えることと、失われた室内を想像だけで埋めないことは両立する。 [2] [3] [4]
よくある質問
東京国立博物館所蔵の国宝、A-1069である。常時展示とは限らないため、来館前に同館の展示情報を確認したい。 [1]
博物館が説明する主な作業は支持体の安定化、傷みの修復、汚れの軽減、屏風の改装、新しい裏紙の制作である。1590年の色を完全に復元して画面全体を描き直したという説明ではない。 [3]
現在の左隻は水と金地、右隻は大きな幹に重心がある。この違いが、枝の広がりと木の大きさを感じさせる。これは画面を見た解釈で、失われた部屋での唯一の見方を示すものではない。 [4]
読者との対話
作品の現在の姿と、修理で見つかった物証を分けて考えてください。
鑑賞の手がかり
現在の折り目から、元の襖について何が分かり、何は分かりませんか。
四面の襖へ戻さず二隻の屏風にした理由をどう考えますか。
桐文様の唐紙は八条宮家との関係をどこまで示しますか。
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参考資料
- 東京国立博物館《檜図屏風》作品記録、A-1069。現在の形、材質、寸法、年代、伝来。
- 文化財活用センター《檜図屏風》解説。絵柄と旧来の改装。掲載画像は制作素材として転用しない。
- 東京国立博物館、『国宝 檜図屏風 平成の大修理』、2015年、2–6頁。日英併記の全6頁を確認。
- ColBase、東京国立博物館A-1069の画像記録。使用ファイルのURL、ハッシュ、加工履歴は画像台帳に記載。
- 国立文化財機構・ColBase画像利用案内。出典リンク、クレジット、加工の表示。
- 東京文化財研究所・国宝《檜図屏風》修理記録、および東京国立博物館の保存修理展示。
- メトロポリタン美術館「The Kano School of Painting」。狩野派と桃山期の大画面の背景。
- 中部義隆、「狩野永徳展の物語」、京都国立博物館だより158号、2008年。
- 河合正朝、「妙法院大玄関の松図障壁画について」、『美学』30巻3号、1979年、12–27頁。確認したのは論文要旨。
- 筑波大学、近本祐紀子『日本絵画における樹木表現の研究―彩色表現を中心として―』博士論文審査報告書、2024年。確認したのは審査報告であり、論文本体ではない。







