夢二式美人から肉筆画、雑誌、書物、詩と日用品の図案まで、残る現物に沿ってたどります。

竹久夢二を「夢二式」の先まで見る
竹久夢二(一八八四〜一九三四年)と聞くと、伏せた目、大きな瞳、細長い姿を思い浮かべる人が多いだろう。だが、その像だけを作品全体の代名詞にすると、なぜ「夢二式」という言葉が流行したのかが見えにくい。人々が出会った夢二の絵は、展覧会場の肉筆画だけではない。新聞のコマ絵、雑誌の表紙、絵葉書、書物、楽譜の表紙、便箋や封筒、半襟、浴衣にまで広がった。絵を見ることと、絵の付いた品を読む・着る・贈ることが続いていた。岡山の夢二郷土美術館は、画家と詩人に加えて、今日のイラストレーターやグラフィックデザイナーに近い仕事も夢二の画業として紹介している。 [1]
国立国会図書館の調査によれば、一九一〇年までに夢二の挿絵はおよそ四十五種の新聞や雑誌に載った。「夢二式」という呼び名も、明治四十年五月二十八日付『読売新聞』の編集日誌に見える。つまり、夢二の絵が美術館の収蔵品になるより前に、印刷物を通じて大勢の読者の目に触れ、姿かたちを言い表す語まで生んでいた。言葉の流行を、一枚の代表作だけから説明することはできない。どの媒体で誰が見た絵なのかを辿る必要がある。 [2]
ここではまず図版の媒体を確かめたい。女性と黒猫の親密な画面が『小説倶楽部』の表紙に載れば、それは一九二一年の雑誌を手に取る人へ向けた像になる。同じ作家の一九一四年の絹本着色の掛幅は、材質も大きさも鑑賞の距離も違う。さらに大正末の『婦人グラフ』では、女性像と花、衣服の縞模様を一つの表紙の意匠にする。これらをひとくくりの「大正ロマン」に入れてしまうと、夢二が描く方法と見せる方法を変えていたことが失われる。伝記で生涯を追う前に、現物から画業を広く見渡す。 [3] [4] [5]
ひと目でわかる夢二
- 生没年1884–1934年
- 主な活動明治末から昭和初期
- 媒体肉筆画、挿絵、書物、楽譜、商品
- 見る手掛かり原画、初出誌、再録、版を区別する
目次
「夢二式美人」は顔立ちだけか
『小説倶楽部』五巻三号の図では、女性の腕と肩の白い曲線が黒猫を包み、その黒さが髪と呼応する。あたたかい褐色の余白は広く、家具も場所も説明しない。視線は猫へ下がり、見る側に正面から働きかける肖像とは違う静けさがある。国会図書館の選んだ画像と号数からは、図の掲載媒体と年を確かめられる。一方、描かれた女性の固有名や実際のモデルは分からない。夢二の私生活にいた誰かを、根拠なしに表紙の人物名として付けるべきではない。 [6]
「夢二式美人」は、大きな目を一つの印とする説明を超えている。国会図書館は、明治四十一年の『少女の友』所収「生れぬ前」を例に挙げる。着物の女性は日傘を差し、首にはショールを巻き、傍らの子どもたちは洋装である。和装と洋装、髪形と化粧、身体の細さ、身のこなしが一緒になって、時代の美人像を作った。江戸末期までの錦絵に多かった細い目の顔立ちと、近代になって好まれた大きな瞳との違いも、同館は当時の美意識の変化として考える。一枚の絵を「悲しげ」で片づけるより、姿の何が同時代の読者に新しく映ったかを問う方が具体的だ。 [2]
ただし流行の記録は、当時の女性すべての希望を代弁するものではない。絵を描くのは夢二で、掲載を決めるのは編集者や版元であり、商品として売る店もあった。読む側にはまた別の選び方があったはずだ。史料で分かるのは、ある女性像が新聞や雑誌から広く知られ、商品とも結び付いたことまでである。絵の中の女性に自分の言葉を語らせたり、その姿を現実の女性の生活記録と同一視したりしない。表情と身振りを細かく見ることと、当時の読者の経験を断定することは違う。 [2]
大正十五年の『婦人グラフ』三巻五号では、女性の横顔を藤の花が囲む。黒くまとまった髪、顔の小さな赤、青と白の太い縞、紫の小さな花房は、それぞれ異なる大きさの色面でできている。女性が上げた手は、藤の連続を一度止め、花を見ようとする身体の動きを生む。女性だけを切り抜くと、花と縞の対比が消える。この図が表紙として読まれたことを考えれば、顔、着物、植物を一緒に見るべきである。日本の展覧会資料はこの号の日付を一九二六年五月一日と記す。 [4] [5]
同誌三巻六号は同じ図の別摺ではない。次の号に選ばれた別の姿で、椅子に座る女性が手元へ意識を向ける。後方には扇と植物の文様があり、着物の縞は五号の図とは異なる間隔で流れる。五月の表紙では花に向かう手が外へ伸び、六月の図では手元へ視線が戻る。二つを並べることで、夢二が「女性を大きく描く」だけの画家ではなく、場面ごとに目の動きを組み立てる図案家だったことが見えてくる。所蔵の号数を残さなければ、この差を同じ「藤の美人」のように曖昧にしてしまう。 [7] [8]

藤の表紙を細部から読む
番号を押すと、国立国会図書館の高解像度画像から作った細部を拡大できます。全図の位置と、下の説明を合わせて見てください。
注釈画像の細部
顔と手
顔と手の間には花房が入る。モデルの身元を推測せず、視線と身体の方向を確かめる。

Source: NDL Image Bank, National Diet Library, Japan. 原資料. 編集部が切り抜き・縮小。
藤の花房
藤の紫と葉の緑は髪の黒を囲み、顔の肌色を浮かび上がらせる。

Source: NDL Image Bank, National Diet Library, Japan. 原資料. 編集部が切り抜き・縮小。
着物の縞
青と白の縞は花房の小さな色面と対照を作る。女性像だけを切り抜くとこの関係が消える。

Source: NDL Image Bank, National Diet Library, Japan. 原資料. 編集部が切り抜き・縮小。

新聞の小さな絵から、展示室の肉筆画まで
夢二郷土美術館の年譜では、明治三十八年(一九〇五)に新聞や雑誌へ投稿し、「夢二」の筆名を使い始める。明治四十二年(一九〇九)には『夢二画集 春の巻』が刊行された。美術館はその後の自著を約六十冊と数える。最初から一つの画壇に所属して展覧会だけで名前を広めた画家として読むより、新聞、雑誌、画集を通じて自分の画風を読者の手元へ届けた人として見る方が、初期の活動をよく説明する。京都国立近代美術館は、平民社系の新聞に寄せた風刺画を初期の仕事として重視する。あの叙情的な女性像の前に、社会へ向けた線と文章があった。 [1] [9]
しかし、出版の絵だけではない。大正元年(一九一二)に京都で開かれた最初の作品展には、夢二郷土美術館の年譜によれば油彩の《初恋》を含む百三十七点が並んだ。宮城県美術館所蔵の《ギヤマン問屋の夏》は大正三年(一九一四)の絹本着色による掛幅で、縦一一七・〇×横四〇・二センチ。彩色された絹の長い画面を前にすることと、同年の雑誌をめくることは同じ鑑賞ではない。片方の実物が美術館に、別の印刷物が図書館に残った今、どちらかを本物、もう一方を単なる宣伝とする必要はない。現物の材質と使われ方の違いこそが画業の厚みを作る。 [1] [10]
岡山の夢二郷土美術館は《立田姫》《西海岸の裸婦》《秋のいこい》《加茂川》などの肉筆画を所蔵し、作品や資料を合わせ約三千点と案内する。その画面が当サイトの制作画像として直ちに使えるわけではないが、作品の題と所蔵を確かめれば、掲載する印刷図像だけから夢二の全体像を作る誤りを避けられる。画集や雑誌で見慣れた図柄が、元の絵とどのような関係にあるかは、一点ごとに調べなくてはならない。別の館の写真を無断で並べることより、確認できる物として名前を挙げ、所蔵解説へ読者を案内する方が正確だ。 [11]
書物の挿絵では、同じ画家の別の力が見える。国会図書館が紹介する『新訳絵入伊勢物語』は一九一七年の刊本で、複数の場面と表紙の図が残る。舟が青い水面を進む図、井戸を囲む人物の図、旅人を強い青の背景に立たせた図では、余白と人物の大きさが変わる。本文を開かずに特定の段の物語と決めることはできないが、一冊のなかで場面に合わせて構図を変えたことは、連続する図から見える。一枚だけを取り出して「夢二の美人画」と呼ぶのでは、読書の時間を伴う挿絵の仕事が失われる。 [12] [13]

港屋は「絵を売る店」だけではない
夢二郷土美術館の年譜は、大正三年十月、日本橋区呉服町の「港屋」開店を記す。国会図書館が挙げる品は帯、半襟、手染めの浴衣、手ぬぐい、人形に及ぶ。帯や半襟は、額に掛けて眺める作品ではなく、身に付けて街を歩くものだ。絵から生まれた意匠が暮らしの中で動き、見る人が自分の装いに採り入れる。この店を通して「夢二式」は画面内の女性像だけでなく、商品と着こなしの呼び名になった。 [1] [2]
現在の竹久夢二美術館は、図案家としての夢二に注目する展覧会資料で、千代紙に日本と西洋の意匠を組み合わせたこと、港屋を通じて自作の図案を持つ品々を売ったことを説明する。夢二が晩年に日用品の制作に関わる美術研究所を思い描いたことにも触れる。一九一四年の店と一九三〇年代の構想は別の時期だが、生活の中の美を課題にした点でつながる。国内外の美術雑誌を参照しながら文様を考えたとする近年の回顧展の説明も、夢二を過去の浮世絵の模倣だけで扱わない理由となる。 [14] [5]
国会図書館の《夢二封筒模様 第一集》は大正八年(一九一九)の記録を持つ。封筒に向けた図柄を、そのまま「肉筆美人画」と紹介することはできない。紙片が手紙とともに移動するという使われ方も、図の働きの一部である。印刷された女性の姿、周囲の色面、余白は、小さなものを選んで送る人と受け取る人の間に置かれる。絵は一つの場所に固定されない。美術館に残る肉筆画と並べて考える時にも、この動きと値段の異なる媒体があったことを忘れない。 [15]

港屋だけを見ていると、別の商業印刷に広がる仕事を見落とす。『三越』十五巻六号所収《凉しき裝ひ》は一九二五年の図で、三人の女性を室内の横長の画面に置く。一人は煙草を持ち、一人は小さな丸い物を指先にし、もう一人はグラスのような物を顔へ運ぶ。卓上には果物、椅子の下には眠る犬がいる。桃色の椅子、縦縞の壁、黄や緑の衣服によって、室内は平面的な図案としてまとまる。誰か特定のモデルの肖像と決めずとも、会話や余暇を感じさせる場面として詳しく見られる。 [16]
同年の《野遊》は人々を屋外へ移す。左では短いズボンの子が蝶を追い、中央では寝そべった女性が手を上げ、右ではもう一人が花へ目を落とす。敷物と瓶、食べ物が遠足の場面を作るが、空と地面には白い余白が多い。《凉しき裝ひ》の室内を支えた細い縦縞はここにはなく、かわりに雲の青い線と草地の輪郭が横へ広がる。二図を隣り合わせにするのは画像数を増やすためではない。同じ一九二五年の雑誌で、夢二が室内と屋外をどう組み替えたかを見せるためだ。頁中央に見える折り目も、元の横長の紙を意識させる。 [17]


国会図書館は「夢二式」の流行が一九一四〜一九年頃に頂点を迎え、一九二六年までに勢いを失ったと説明する。しかし、それを夢二の仕事そのものが終わった年と読んではいけない。ここに載せる『三越』二図や一九二六年の『婦人グラフ』が、その後も媒体と意匠を変えて制作した証拠となる。ある様式の大流行と、画家の制作年を別々に考えれば、人気が変わる時代の中で夢二が何を描いたかを問える。 [2] [16] [8]
詩、歌、楽譜の表紙を分けて読む
「宵待草」は夢二の作品として親しまれるが、その言葉が指す物は一つではない。夢二郷土美術館によると、原詩は大正元年(一九一二)、筆名「さみせんぐさ」で雑誌『少女』に発表され、大正二年(一九一三)の『どんたく』で現在知られる詩形になった。多忠亮が曲を付けた歌は、大正七年(一九一八)にセノオ楽譜から刊行された。歌詞を書いた人、曲を作った人、表紙の絵と図案を考えた人を、一語の「作品」で潰さない。二〇二六〜二八年の展覧会資料が示すセノオ楽譜一〇六番は一九二一年の現物で、一九一八年の初版とは出版時点も違う。 [1] [5] [18]
セノオ楽譜の表紙について、岡山の美術館は一九一六年から昭和に及ぶ二百七十点余りを数える。京都国立近代美術館はその様式の多様さを、古今東西の美術への関心と結び付ける。同じ楽譜の表紙でも、曲名と売り場で目立つ必要があり、音楽の雰囲気も伝えなければならない。図案に自由がない仕事ではなく、条件があるからこそ毎回違う解を求められる仕事である。楽譜を買う人は絵だけを買うつもりでなくても、夢二の意匠を手元に置いた。絵を社会へ送る別の道がそこにあった。 [1] [9]
岩田準一編『夢二抒情画選集』は昭和二年(一九二七)刊の上下巻で、先に雑誌などに現れた図を再び見せる。国会図書館の上巻目次は、《シーサイド》を大正十三年八月の『婦人グラフ』に結び付ける。したがって、この図を「一九二七年の新作」と呼ぶのも、「一九二四年の雑誌そのものの写真」と呼ぶのも正確ではない。一九二七年の選集に再録された図であり、その前の掲載先まで目次で辿れるのである。何度も目に入る図には、描かれた時、雑誌で読まれた時、画集に再編された時という複数の時間がある。 [19]

下巻の《紅梅》では花枝と着物姿の人物が向き合い、《花火》では青い地の中で背を向けた人物が光へ手を伸ばす。名のある二図を「夢二式美人」で一括りにしてしまうと、季節と動作の違いが見えなくなる。少なくとも一九二七年の選集に載ったことは確かだが、その年に初めて絵が作られたとは限らない。《紅梅》の初出年を調べずに一九二七年作の絵画と書くことも、《花火》を火薬の祭りの記録写真のように扱うことも避ける。年代を限定できないことと、図を詳しく観察できないことは別である。 [20]

《黒船屋》と《黒船》は同じ画像ではない
《黒船屋》は大正八年(一九一九)の肉筆作品として竹久夢二伊香保記念館が所蔵する。近年の全国展の作品紹介も、所蔵館と年を明記している。猫を抱く女性の姿は夢二の代表像として知られるが、この作品の材質、寸法、元の画面を論じるには、伊香保の原作品に即した資料を用いなければならない。所蔵館のウェブ写真を、公開されているからといって無条件に当サイトへ複製してよいわけでもない。個別の作品ページは、画像の利用条件と現物情報がそろってから構成する。 [5] [21]
国会図書館イメージバンクには、上巻所収の《黒船》という別題の図がある。見かけた漢字が似ているだけで、《黒船屋》の原画をスキャンした画像だと決めることはできない。収録書は昭和二年刊で、図の構図も掲載の形も異なる。この二図を取り違えると、肉筆画の画面から読み取ったつもりの細部が、実際には別の印刷図から来たことになる。作品名は検索の入口にすぎず、所蔵、媒体、出版年と現存する画像を合わせて同定する。 [19] [5]
大英博物館の作者記録には夢二生前の品々とともに、没後に作られた版画も関連品として載る。たとえば一九三五年という制作・刊行年は、作者が亡くなった後の版や作品集の年かもしれない。一九四一年の現物を見つけて「夢二は一九四一年に制作した」と書くことはできない。オランダ国立美術館にある「小春」の異なる版、デジタル画像が付かない登録品からも、図柄と現存する物が同じではないことが分かる。同じ題でも、一点の所在、番号、製作と刊行の関係を読む習慣を持ちたい。 [22] [23]
大正の終わりで仕事は終わらない
大正十二年(一九二三)の関東大震災は、夢二の制作環境にも深い影響を与えた。夢二郷土美術館は、恩地孝四郎らと進めた「どんたく図案社」の企画が震災で潰え、その後に「東京災難画信」を新聞に連載したことを年譜に記す。災害の時に何をどう描いたかは、見つかった一点の図だけで全て説明できない。しかし、流行の美人像を描いた人が、傷ついた都市を見て報じる絵を描いたことは、画業の範囲を考える上で重要である。近年の回顧展も震災スケッチを、生活の美を求める晩年の構想と並べて見せる。 [1] [5]
その後の図では服装と髪形も変わる。全国展は、洋服を着て髪を短く切り、西洋風の装身具を付けた女性や、ウェーブの髪で着物を新しく着こなす女性を取り上げる。『婦人グラフ』の藤の表紙でも、鮮やかな花と縞が女性像を囲み、かつての「憂いを帯びた細身の美人」という語だけでは足りない。新しい服装は実在の女性たちの選択と接しながら流行しただろうが、表紙の人物を匿名のまま残し、現実の誰かの記録肖像と呼ばない。図像は時代の提案であって、実態の統計ではない。 [5] [4]
京都国立近代美術館は、夢二が西洋の印象派以降の動向、ロシア未来派や抽象絵画にも関心を示したと説明する。岡山の年譜には、昭和五年(一九三〇)の榛名山美術研究所構想、昭和六年から七年のアメリカ滞在、昭和八年のベルリンでのイッテン・シューレにおける日本画講習が続く。生活の品々を作る美術教育の場を求めたが、構想した研究所は開校していない。大正十五年で時代名が変わったからといって、創作の関心もそこで止まったと考える理由はない。 [9] [1] [14]
夢二を今日「大正ロマン」の象徴と呼ぶことには、後世の受け止め方も含まれる。大英博物館は、昭和後期の再評価が大正文化への関心と歩調を合わせたと記す。再評価の物語は、最初に雑誌を読んだ人々の反応と同じではない。肉筆画の年代、印刷物の刊行年、流行した語の時期、戦後に展覧会で見直された時期を分けて考えれば、夢二の仕事を一つの時代の雰囲気だけに閉じ込めずに済む。 [22] [2]
作品を見に行く時の手掛かり
夢二の絵を探すなら、作品名だけでなく、まず媒体と所蔵先を見る。岡山の夢二郷土美術館は肉筆画と資料を大きく集め、宮城県美術館は一九一四年の絹本の掛幅を作品番号と寸法で紹介する。国会図書館は雑誌や書籍の刊年と頁を辿れ、イメージバンクでは選ばれたパブリックドメイン画像を出典付きで再利用できる。大英博物館の作者記録は版や出版の年を見比べる助けになり、米国スミソニアン博物館の《星の乙女》は肉筆画の材質と来歴を示す。そこで画像の利用条件は別途「Usage Conditions Apply」とされるため、当サイトの掲載用図版には選んでいない。 [11] [10] [24] [22] [25]
一九二一年の猫の図なら雑誌五巻三号の表紙として見る。一九二五年の室内と野遊の二図なら、同じ雑誌の異なる号で、横長の場面がどう組み立てられたか比べる。一九二七年の画選集なら、そこに収録される以前の雑誌掲載が分かるものと、まだ分からないものを分ける。肉筆画なら表装と寸法を含む所蔵記録へ戻る。この手順は細かすぎる確認ではない。夢二の絵が、飾られるだけでなく、読まれ、着られ、送られ、再び本に収められたことを正しく知るための道筋である。 [6] [16] [19]
女性と猫の輪郭、藤の花と縞、卓を囲む三人、青い地の花火。いずれも一目で記憶に残るが、別々の媒体を介して現代の私たちの前へ来た。夢二の画業を理解するとは、甘い雰囲気を言葉でなぞるだけでなく、図柄の細部と、流通した形を同時に見ることだ。時代ごとに絵を何へ託したかが分かれば、「夢二式」という名の下に隠れがちな幅広い仕事が見えてくる。 [2] [3]
よくある質問
大きな目を持つ細身の女性像を指すが、国会図書館は服装、髪形、化粧、身のこなしや港屋の商品まで含めた流行として説明する。明治四十年には「夢二式」の語が使われ、単一の顔の描き方だけではない。 [2]
読者との対話
図の題、最初の掲載媒体、後の再録を分けて、夢二の作品を読み比べましょう。
鑑賞の手がかり
肉筆画、雑誌表紙、選集の再録は、同じ図柄でも何が違いますか。
《黒船屋》と選集の《黒船》を区別するには何を確かめますか。
『婦人グラフ』の表紙で、花と衣装が顔の見え方をどう変えますか。
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参考資料
- 夢二郷土美術館「竹久夢二の足跡」。年譜、媒体と活動、詩と楽譜、港屋、晩年の構想。年齢は数え年のため本文で借用しない。
- 国立国会図書館イメージバンク「一世を風靡した『夢二式』」。語の初出、新聞・雑誌への掲載、女性の姿と流行の変化。
- 国立国会図書館イメージバンク「竹久夢二の表紙と挿絵」。書物、雑誌、封筒の図の選択。
- 国立国会図書館イメージバンク「夢二式美人」。掲載図と『婦人グラフ』の表紙。
- 「竹久夢二 時代を創る表現者」作品紹介。原作品《黒船屋》、港屋、震災、モダンガールと個別の刊行日。
- 国立国会図書館『小説倶楽部』五巻三号と書誌。一九二一年の表紙図。イメージバンク画像
1479984_1。 - 国立国会図書館『婦人グラフ』三巻五号と書誌。一九二六年五月の図。画像
2799512_1。 - 国立国会図書館『婦人グラフ』三巻六号と書誌。一九二六年の別図。画像
2799513_1。 - 京都国立近代美術館「TAKEHISA Yumeji」展示解説。初期の新聞挿絵、現代美術への関心、セノオ楽譜とベルリンでの仕事。
- 宮城県美術館《ギヤマン問屋の夏》作品目録と英語作品解説。一九一四年、絹本着色、縦一一七・〇×横四〇・二センチ。館の画像は制作には使用しない。
- 夢二郷土美術館「所蔵作品」。肉筆画の題と約三千点の所蔵概要。
- 国立国会図書館『新訳絵入伊勢物語』選択頁。イメージバンク画像
1908145_17。 - 国立国会図書館『新訳絵入伊勢物語』書誌。一九一七年刊。挿絵の物語の段は本文との照合を要する。
- 竹久夢二美術館「Yumeji as a designer」展資料。千代紙、港屋、日用品の構想を記す一頁の英文資料。
- 国立国会図書館《夢二封筒模様 第一集》選択頁と書誌。一九一九年、画像
1182862_2。 - 国立国会図書館『三越』十五巻六号《凉しき裝ひ》と書誌。一九二五年、画像
1524610_4。 - 国立国会図書館『三越』十五巻十号《野遊》と書誌。一九二五年、画像
1524614_13。 - ピティナ・ピアノ曲事典「宵待ち草」。多忠亮の作曲家同定。詩と楽譜の年は夢二郷土美術館の年譜で照合。
- 国立国会図書館『夢二抒情画選集』上巻。岩田準一編、昭和二年刊。目次の《シーサイド》は大正十三年八月『婦人グラフ』と記す。選択頁七と二十一。
- 国立国会図書館『夢二抒情画選集』下巻。岩田準一編、昭和二年刊。選択頁八と十八。
- 竹久夢二伊香保記念館。《黒船屋》の所蔵館。館の画像は使用条件を確認するまで転載しない。
- 大英博物館「Takehisa Yumeji」作者記録。出版品、後年の版、画業と再評価の記録。
- オランダ国立美術館《Narrow Meadow Paths》RP-P-2005-606、《Koharu》RP-P-2022-107-1101、《Koharu》RP-P-2022-107-1103。二つの《Koharu》は制作年、版元、寸法が異なり、題だけで同一現物と見なせない。
- 国立国会図書館イメージバンク「ご利用について」。選択されたパブリックドメイン画像の商用再利用と必須出典表記。
- 米国スミソニアン博物館《Star Maiden》S2024.4.19。肉筆画の材質、来歴、画像の使用制限を確認。
- 竹久夢二美術館「コレクション」と画像利用窓口。東京の所蔵と利用条件。



