岡山での出生から新聞、港屋、北陸、米国、ベルリン、台湾まで、残る日付と現物に沿って夢二をたどります。

本名の茂次郎から「夢二」へ
竹久夢二は明治十七年(一八八四)九月十六日、岡山県邑久郡本庄村に竹久茂次郎として生まれた。父菊蔵の家業は酒屋で、岡山の夢二郷土美術館の年譜は母の名を也須能と記す。昭和九年(一九三四)九月一日に長野県の富士見高原療養所で亡くなるまで、およそ半世紀の間に新聞のコマ絵、画集、肉筆画、楽譜の表紙、店で売る品、旅先での展覧会に携わった。名前を冠した作品は膨大でも、「夢二」は生まれた時からの名ではない。いつその画号を使い、どの媒体で知られるようになったかを追うと、生活と仕事の結び付きが見えてくる。 [1] [2]
日本の美術館が公開する年譜には、各年の出来事とともに「一歳」「二十二歳」などの年齢が載る。しかしそれは数え年である。誕生日を過ぎてから一歳加える現在の計算とは違い、年譜の「五十一歳」をそのまま満年齢として英語版や検索結果に流用すれば、生没年と食い違う。日付は資料に従い、年齢は必要な時だけ換算方法を明示したい。年譜が教えるのは単なる年号の並びではない。版や記憶によって、一つの人生がどのように記録されてきたかでもある。 [1] [2]
夢二を「悲しい女性を描いた人」とだけ紹介すると、女性たちの名まで、画家の感情を説明する道具になりかねない。岸他万喜は三人の息子の母であり店を運営した。笠井彦乃は自分の絵を展覧会に出した。お葉と呼ばれた佐々木カ子ヨも、モデルとして働き、夢二と住む時期を経て、自ら離れた。彼女たちと夢二の関係を省く必要はないが、無名の表紙人物を誰か一人と断定したり、作品を恋愛日記のように読むことは別の話である。年の分かる手紙、展示、刊本、所蔵情報から歩みを組み立てる。 [3] [4]
生涯の要点
- 生没年1884年9月16日–1934年9月1日
- 本名・出生地竹久茂次郎、岡山県邑久郡本庄村
- 活動の転機1905年画号、1914年港屋、1930年榛名構想
- 晩年の旅米国、欧州、台湾
目次
移動した少年時代と、新聞に載る最初の線
本庄村からの道は早くも曲がった。夢二郷土美術館によれば、一八九九年に神戸の中学校へ入るが八か月ほどでやめ、同年末には家族が福岡県の枝光へ移った。茂次郎自身は一九〇一年に上京し、一九〇二年に早稲田実業学校へ入学する。京都国立近代美術館も、神戸、九州、東京、早稲田という順序を紹介する。のちに画壇の外で活動したことを「何も学ばずに描き始めた」と言い換えるのは正しくない。学校に通い、投稿先を探し、画面の作り方を試す時間があった。美術学校を卒業していないことと、学びがなかったことは同じではない。 [1] [6]
一九〇五年六月四日付『読売新聞』の日曜付録には投稿文が載り、同年『中学世界』の懸賞ではコマ絵《筒井筒》が一等となる。岡山と金沢の美術館年譜は、この応募作品で「夢二」の名を初めて使ったと記す。名前を採用した場が雑誌の懸賞だったことは興味深い。画家の証明書を受け取ってから名乗ったのではなく、印刷物に自分の絵を送る行為の中で公の名ができた。新聞への初投稿と雑誌での初画号は別の出来事である。「第一作」という語一つで二つを混ぜない。 [1] [2]
初期には叙情だけでなく、社会を見つめる線もあった。京都国立近代美術館は平民社系の新聞や風刺の仕事を重視する。読者を笑わせたり同時代の政治を考えさせたりするコマ絵と、後年の店頭で売れる色紙は、相手にする場が違う。しかし、どちらも版元と読者のいる印刷の世界で成立した。若年期の絵をすべて後の「夢二式美人」の準備としてしまえば、その時々に向けて描いた題と相手が消える。年譜が初めに挙げるのが展覧会ではなく新聞と雑誌である理由を、この実際の仕事の形から考えるべきだ。 [7] [8]
早稲田実業の専攻科は一九〇五年に中退したが、制作の勉強はそこで閉じない。岡山の年譜には、一九〇八年に水彩画を持って大下藤次郎を訪ね、岡田三郎助から助言を得た記録がある。また夢二は西洋の雑誌や美術書から図版を切り抜き、スクラップ帖に残したという。特定の絵にロートレックやビアズリーの影響があると断定するには作品同士を比べなくてはならないが、同時代の図像を集めて見たこと自体は学びの資料となる。独学という一語より、学校、投稿、画家との接触、図版の研究を別々に記す方が制作の道筋に近い。 [1]
他万喜、画集、京都での展示
明治四十年(一九〇七)一月、夢二は金沢出身の岸他万喜と結婚した。三人の男児が生まれ、一九〇九年五月に戸籍上の離婚となる。しかし金沢湯涌夢二館は、その後も同居と別居を繰り返したことを説明する。結婚と離婚の二行だけを並べて彼女を人生から消すことはできない。画家を支えた相手として美化するだけでも足りない。大正三年の港屋絵草紙店では、他万喜が実際に女店主を務めた。彼女の働きがある店を、夢二一人が思い付いて一人で動かした場所として書かないようにしたい。 [3] [2]
「夢二式」という言葉は、国立国会図書館によれば一九〇七年五月二十八日の『読売新聞』編集日誌に見える。一九一〇年までに夢二の挿絵はおよそ四十五種の新聞や雑誌に掲載された。呼び名は、のちの美術館の分類ではなく、当時の読者が出会う姿を言い表す語でもあった。国会図書館が挙げる『少女の友』の着物、ショール、洋装の子どもは、大きな瞳だけでは説明できない時代の身なりを示す。家庭の出来事の横で、夢二の図が雑誌と読者を通って広がっていく。結婚した相手の顔立ちと、印刷物の中で作られる美人像を同一の証拠にはしない。 [8] [3]
明治四十二年(一九〇九)十二月に『夢二画集 春の巻』が刊行された。岡山の年譜は以後の自著を約六十冊、金沢は生涯五十七冊と数える。何を独立した著作本とするかによって総数が違うので、本文では「約六十冊」と言えば十分である。重要なのは、新聞で一度見た絵が作者名で束ねられ、再版され、手元に置かれるようになったことだ。このページの扉に使う国会図書館の画像も六版であり、読者が後の版を通じて夢二に出会ったことを示す。初版の年を六版の図にそのまま押し付けてはならない。 [1] [2] [5]
他万喜の故郷・金沢を夢二が初めて訪れたのは一九一〇年で、金沢の美術館は彼女へ出した手紙にも触れる。この訪問は一九一七年の有名な北陸旅行に先立つものだ。夢二の人生を東京と京都だけの往復にすると、金沢との早い縁が見えなくなる。家族の土地に向かう旅であり、読者と地元の文化人に会う旅の始まりでもあった。ただし、残った書簡の存在から直ちに、金沢を題とする絵がすべて他万喜への暗号だったとは言えない。場所と気持ちをつなぐには、その絵と書簡の制作年、題、実際の文言まで照合する必要がある。 [3] [2]
大正元年(一九一二)十一月二十三日から十二月二日には、京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」が開かれた。岡山の年譜が挙げる百三十七点には油彩《初恋》もある。新聞と画集で名を知られた人が、実物の絵を展示室で見てもらったことになる。後に版画家となる川西英は、この京都の展覧会へ神戸から足を運んだ記憶を残し、京都国立近代美術館は彼が夢二のコマ絵を模写し、後には作品を集めた経緯を紹介する。印刷による人気と肉筆画の展示は競合したのではなく、異なる入口として同じ時期に働いた。 [1] [9]
港屋と彦乃、詩と旅はどう重なったか
大正三年(一九一四)十月、日本橋区呉服町に港屋絵草紙店が開店した。千代紙や半襟、浴衣、封筒などに向けた夢二の図案は、着る、贈る、手紙を送るという行為と結び付いた。他万喜が店頭を担った事実を入れると、生活の中の美をめぐる事業は図案を描く人だけで成立しなかったことが分かる。国会図書館の《夢二封筒模様 第一集》は一九一九年の現物で、港屋の開店当日に店頭に並んだ品そのものと断定できない。それでも紙の上の絵が動く品の意匠になったことを示す、種類のはっきりした一例である。 [2] [10]

港屋で夢二と知り合った笠井彦乃は、絵を持って店を訪れていたと金沢湯涌夢二館は伝える。一九一七年には京都でともに生活し、夢二の次男不二彦を伴って北陸・加賀へ旅した。金沢での「夢二抒情小品展覧会」には、彦乃自身が「山路しの」の名で作品を出したという。人の顔を描く画家の生涯に現れた女性だからといって、彼女の絵を描く行為まで見えなくしてよいわけではない。展示名が残ることは、彦乃を制作する側として考えるための重要な記録である。 [3] [2]
同じ旅では夢二が地元の文人らと交流し、湯涌温泉に滞在した。金沢の年譜は長い道中を六十六日とし、九月下旬から十月半ばの湯涌滞在を記す。美術館は、不二彦が旅先で病気になったことや、画会を開いたことにも触れる。詩の中の「懐しい」地として後から読むだけでは、この旅の仕事と暮らしの条件が抜ける。翌一九一八年には京都府立図書館と神戸で展覧会が続いた。夢二は旅先で作品を作り、見せ、収入を得ようとし、同時に家族や親しい人の健康にも向き合っていた。 [2] [4] [1]
この頃の歌も「夢二一人の作品」と呼ぶと意味を失う。詩「宵待草」の原形は一九一二年六月の『少女』に、現在知られる形は一九一三年刊『どんたく』に現れる。一九一八年九月のセノオ楽譜として広まった歌では、多忠亮が作曲した。夢二は詞の作者であり、セノオ楽譜の多くの表紙も手掛けたが、旋律の作者ではない。詩、楽譜の図、音楽が異なる人と媒体を通じて結び付いたこと自体が重要である。二百七十点余りの表紙装幀をしたという岡山の年譜を読んでも、個々の曲の作詞・作曲・装幀は別々に調べたい。 [1] [2] [11]
彦乃と過ごした時期に夢二が挿絵を付けた『新訳絵入伊勢物語』は一九一七年の刊本である。画面ごとに人物と余白、水辺の色が変わり、一枚の美人画とは異なる読書の流れを作る。ただし国会図書館の一頁だけから「この場面は二人の旅の暗示」とか、物語の段名を決めることはできない。古典の本文に付けられた図と、夢二の生活史は、同年に重なる別の資料である。二つを行き来して考えるには、まずそれぞれの出典を正確に読む。 [12]

大正八年(一九一九)に刊行された『山へよする』には湯涌の記憶が詠み込まれたと金沢の美術館は説明する。その年に描かれた肉筆画《黒船屋》は伊香保の竹久夢二記念館に残る。彦乃の病と別離に関連付ける美術館の解説はあるが、画面の女性が彦乃その人であるという個別の作品記録とは区別する。彦乃は大正九年(一九二〇)一月十六日に亡くなった。夢二と彦乃の手紙の所蔵が示す関係の確かさと、一枚の絵のモデルを確定する資料の有無は、同じ問いではない。まして国会図書館の一九二七年刊選集の《黒船》を、肉筆画《黒船屋》の代用画像として置くことはできない。 [4] [13] [14]
お葉と関東大震災、その後も続く制作
お葉の本名は佐々木カ子ヨで、金沢湯涌夢二館は秋田県の出身と紹介する。岡山の年譜では一九一九年頃からモデルとして夢二の周囲におり、同居は一九二一年頃に始まる。知り合ってモデルになった年と、同じ家で暮らし始めた年を一つにしない。のちの表紙に現れる女性の名も、制作年がこの期間に重なるだけでは決められない。たとえば一九二一年の『小説倶楽部』五巻三号で黒猫を抱く女性を、国立国会図書館の書誌はお葉と同定しない。猫の黒さと髪の黒さが響き合う構図を説明することはできても、人物の戸籍名を補うことはできない。 [1] [3] [15]

大正十二年(一九二三)五月、夢二は恩地孝四郎らと「どんたく図案社」結成の宣言文を出した。しかし九月一日の関東大震災で計画は頓挫する。夢二は九月十四日から『都新聞』に「東京災難画信」を連載した。事業の失敗だけを晩年への転落として描くより、災害を絵と文章で伝える新しい仕事が始まったことも同時に見るべきだ。震災直後の実際の画信は、いつか個々の頁と権利を確かめた上で紹介したい。現時点では展覧会の説明画像や検索結果を転載して、その連載自体の図とすることはしない。 [1] [2]
大正十三年(一九二四)十二月には東京の松原にアトリエ付きの住まい「少年山荘」を完成させ、お葉や子どもたちと暮らした。仕事と居住を同じ建物に置く試みは、震災で止まった図案社と、後の榛名山構想の間にある。翌一九二五年にはお葉と別れる。大英博物館の作者記録もこの時期の別離を記す。金沢の美術館は深谷温泉への滞在と別離の経緯を詳しく語るが、私生活の一場面を刺激的に再現しても、画業はよく分からない。彼女がモデルを務め、家を共にし、自分の進路を選んだことを記し、具体的な作品との関係は個別の資料に任せる。 [1] [3] [27]
この時期の新聞には『岬』『秘薬紫雪』『風のやうに』など、自作自画の物語が続いた。昭和二年(一九二七)の『出帆』は自伝絵画小説と呼ばれ、千代田区立図書館は生前唯一の自伝とされる小説として紹介する。だが「自伝」という形式を取る作品にも、描く順番や人物の作り方がある。物語の登場人物を戸籍上の人へ一対一で当てはめる前に、掲載紙、回次、後の単行本との違いを確かめる必要がある。新聞連載は一度きりの展覧会に比べ、読者が繰り返し夢二の名と絵に接する仕事でもあった。震災後の生活を「創作をやめた期間」とすることができない理由の一つである。 [1] [28]
大正十四年の『三越』に残る《凉しき裝ひ》と《野遊》も、仕事の継続を具体的に示す。前者は室内の三人と犬、後者は屋外の人々と敷物を別の構図にする。同じ年だから同じ日の出来事を描くわけではなく、紙面ごとに場面を設計した印刷図である。お葉との別れをそのままどちらかの表情に読むより、読者が手にする雑誌の画面として比べたい。この二図が美術館ではなく国会図書館の雑誌に残っていることも、夢二の仕事の受け手と保存のあり方を物語る。 [16] [17]


選集に入った図の年代にも気を付けたい。一九二七年刊『夢二抒情画選集』上巻には《シーサイド》が再録され、目次は一九二四年八月の『婦人グラフ』初出を示す。作家の生涯の年表に一九二七年の図として置くと、最初の発表時期が消える。掲載誌の読者と三年後に選集を買う読者は同じではなく、再録時には図の並びや文脈も変わる。生涯の節目と一枚の画像を結び付ける前に、初出、現存する版、後の複製の三段階を確かめる。 [18]

榛名山から米国へ――実現したものとしなかったもの
昭和五年(一九三〇)五月、夢二は「榛名山美術研究所建設につき」の宣言文を発表した。生活と芸術を結び、手による制作を育てたいという構想である。伊香保の記念館は年末に榛名湖畔のアトリエが完成したと記す一方、京都国立近代美術館は研究所の計画そのものは実現しなかったと明記する。「宣言した」「アトリエを建てた」「研究所を運営した」は別の行為なので、二館の記述を対立させる必要はない。港屋、どんたく図案社、榛名を並べれば、絵を生活に届く形へする関心が続いたと分かる。ただし三つを一つの成功した組織と見せてもいけない。 [1] [6] [13]
一九三一年五月七日、夢二は横浜から米国へ出発した。岡山の年譜ではホノルルを経て、九月にカーメルで展覧会を開き、翌年にはロサンゼルスの大学やリトルトーキョーのオリンピック・ホテルで展示した。米国行を「西洋美術を見て帰る旅」だけとするのは、実際の展示相手を見落とす。残る一九三二年三月のオリンピック・ホテル展のチラシには開催地と時期が書かれ、日本語で暮らす移民社会の中に夢二の作品が置かれたことを示す。米国滞在中の売上や評価については会場ごとの資料が必要で、一度の展覧会の成否を全旅程へ広げない。 [1] [19]
ロサンゼルスの郷土史を調べた米国公共放送PBS SoCalの記事は、ソーテルやリトルトーキョーの人々、橋本家、写真家宮武東洋との関係を掘り起こす。宮武は一九三二年に夢二を撮影し、渡欧前に夢二から油彩《西海岸の裸婦》を贈られたという。岡山の夢二郷土美術館は現在この絵を所蔵作品として挙げる。絵が家族によって守られ、のちに日本へ渡った経緯は、画家の移動だけでなく作品が生き延びた道を示す。ただしPBSの記事には家族の記憶と後年の取材が交じる。年譜にない細部をすべて同時代の確定記録として使わず、現存するチラシ、写真、絵の所在をそれぞれ示す。画像は権利の確認なしに転載しない。 [19] [20]
米国から夢二は一九三二年九月に出帆し、十月十日にハンブルクへ着いた。ヨーロッパでは画信やスケッチを残し、翌年ベルリンでヨハネス・イッテンの学校「イッテン・シューレ」において日本画を教えた。ここはイッテンがバウハウスを離れた後に設立した別の学校であり、「夢二はバウハウスの教授だった」と書くと学校を取り違える。京都国立近代美術館には授業で示した墨画十点と一九三三年の講義用テキスト『日本画に就いて』が、イッテン家の遺族から寄贈されている。この二種類の現物によって、ベルリンの仕事は単なる有名人との交友以上に具体的になる。 [2] [21]
デザイン史研究者の金子宜正は、イッテン・シューレの日本人教師に夢二と水越松南を挙げ、教える側と学ぶ側の交流を論じる。ここで読んだのは論文の抄録であるから、イッテンの色彩理論が夢二のどの作品でどう変わった、といった本文中の細かい議論を読了したかのように借りることはできない。確かめられるのは教師としての参加と、京都に残る手本・テキストの存在までである。研究所を夢見た人がドイツでは実際に教室に立ったという対照は、別の学校を同一視せずとも十分に興味深い。 [22] [21]
台湾への最後の旅と、残された現物
一九三三年九月十八日、夢二はヨーロッパから神戸へ戻った。間もなく向かったのは日本統治下の台湾である。東京外国語大学海外事情研究所の雑誌に載った、ひろたまさき「台湾の夢二―最後の旅」は、当時の新聞を手掛かりに十月二十六日の基隆到着、十一月三日の台北での講演、同三日から五日まで警察会館で開かれた滞欧作品展を検討する。これなら「帰国後まもなく病んだ」という一行の中で台湾を消さずに済む。作品を持って見せ、語るための具体的な日程を持つ旅だった。 [1] [23]
ただし、この展覧会を日本の本土の催しと同じ空間として書くこともできない。ひろた論文は植民地台湾の画壇、同時期の台湾美術展覧会、警察会館という会場に目を向け、夢二の受け止められ方を考える。台湾の美術史資料庫には一九三一年の警察会館の写真を検討した記事があり、夢二の一九三三年の展示にも触れる。写真の「娯楽室」が実際の展示室だったかどうかは確かめられていない。古い写真があることと、当サイトが商用記事へその画像を掲載できることも別である。場所の説明と図版の権利をそれぞれ調べたい。 [23] [24]
ひろた論文は渡航の資金や植民地を見る夢二の姿勢にも踏み込む。しかし借金を旅の動機とする説には、紹介された書簡や後年の研究をさらに確かめる必要がある。夢二の心の中を直接読める史料として論者の解釈を引用しない。同論文の冒頭には渡米年を「一八三一年」とする明らかな誤記もあり、複数の美術館年譜に照らせば一九三一年である。資料を一つ読んで終わりにせず、同じ出来事を別の種類の記録で確認する価値が、最後の旅ほどよく見えるところはない。 [23] [1] [2]
台湾から戻った後に病状が悪化し、昭和九年一月、夢二は長野県の富士見高原療養所へ入った。京都国立近代美術館は死因を肺結核とする。岡山の年譜には同年四月刊の『祇園囃子』の装幀も載る。療養中の年を創作の空白として処理しない一方、最後の本の制作工程や病室での作業を、記録なしに想像して書くこともしない。九月一日に亡くなったという日付、療養所、墓碑、手掛けた本の刊行年を、一つずつ確かめた形で結ぶ。 [1] [6]
夢二の没後、同時代から作品を集めていた川西英の保存した図や書簡は京都国立近代美術館へ伝わった。同館は川西コレクションの千百点余りのうち約三分の一を夢二関係と説明する。千代田区の展覧会案内は、龍星閣という出版社が戦後の画集刊行と資料収集で再び関心を広げた一つの経路を示す。生涯に多くの媒体を横断した画家を、のちの一館一作だけから理解することはできない。書簡が残った場所、雑誌を守った図書館、教室の墨画を保管した美術館、米国で絵を預かった家族は、それぞれ違う種類の証拠を後世へ渡した。 [9] [25] [19]

藤の表紙を細部から読む
番号を押すと、国立国会図書館の高解像度画像から作った細部を拡大できます。全図の位置と、下の説明を合わせて見てください。
注釈画像の細部
顔と手
顔と手の間には花房が入る。モデルの身元を推測せず、視線と身体の方向を確かめる。

Source: NDL Image Bank, National Diet Library, Japan. 原資料. 編集部が切り抜き・縮小。
藤の花房
藤の紫と葉の緑は髪の黒を囲み、顔の肌色を浮かび上がらせる。

Source: NDL Image Bank, National Diet Library, Japan. 原資料. 編集部が切り抜き・縮小。
着物の縞
青と白の縞は花房の小さな色面と対照を作る。女性像だけを切り抜くとこの関係が消える。

Source: NDL Image Bank, National Diet Library, Japan. 原資料. 編集部が切り抜き・縮小。
夢二の生涯を知るために、感情の強い物語を捨てる必要はない。湯涌への手紙、子どもを伴う旅、死別の記録には重さがある。ただし、その重さが一枚ごとの図像を自動的に解読する鍵にはならない。新聞に初めて載った名、店を動かした他万喜、作品を出した彦乃、離れていったお葉、実現しなかった榛名の学校、実際に教えたベルリンの教室、台湾の三日間の展示。それぞれを固有の日と現物に戻すことが、絵に見える女性像を一つの伝説から解き放ち、夢二の仕事をより広く見る道になる。 [1] [3] [21] [23]
よくある質問
本名は竹久茂次郎。明治十七年(一八八四)九月十六日、岡山県邑久郡本庄村に生まれた。現在の地名では瀬戸内市に当たる。「夢二」は一九〇五年の『中学世界』応募作で初めて使った画号と美術館年譜は記す。 [1] [2]
美術学校の課程は修了していないが、早稲田実業学校で学び、新聞や雑誌へ投稿し、画家に助言を求め、西洋の図版を集めて研究した。「独学」は画壇の通常の卒業経歴がないという意味では使えても、学ぶ相手も資料もなかったという意味にはならない。 [1] [7]
岸他万喜は夢二の妻となり三人の息子を育て、港屋の女店主を務めた。笠井彦乃は自ら絵を描き「山路しの」として金沢の展示へ出品した。お葉こと佐々木カ子ヨはモデルを務め、後に夢二と同居し、一九二五年に離れた。彼女たちの存在だけで、無名の雑誌人物の名は確定しない。 [3] [1]
読者との対話
年譜、現存する手紙、展示資料と後の解釈を分けて、夢二の生涯を考えましょう。
鑑賞の手がかり
他万喜の港屋での仕事を入れると、夢二の事業の見え方はどう変わりますか。
「山路しの」の出品記録は、彦乃の立場について何を教えますか。
米国、ベルリン、台湾に残る資料は、それぞれどこまでを確かめられますか。
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参考資料
- 夢二郷土美術館「竹久夢二の足跡」。生涯の年譜。年齢は数え年。母、学校、新聞、家族、刊本、海外の移動と没年の記録。
- 金沢湯涌夢二館「年表」。画号、他万喜と港屋、北陸、海外、晩年の日時を照合。
- 金沢湯涌夢二館「三人の女性と金沢の縁」。他万喜、彦乃、お葉の出自、仕事と別離。心理的な叙述は館の解釈として扱う。
- 金沢湯涌夢二館「湯涌――『懐し』の地」。一九一七年の旅と一九一九年の歌集、書簡。
- 国立国会図書館『夢二画集』六版の選択頁とイメージバンク選択図。画像
1901200_3は一九〇九年の初版と同一現物ではない。 - 京都国立近代美術館「川西英コレクション収蔵記念展」。生涯の概略、榛名構想とベルリンの教材、肺結核による死。
- 京都国立近代美術館「二〇二四年度第四回コレクション展」。初期の社会的な絵と晩年のイッテン・シューレ。
- 国立国会図書館イメージバンク「一世を風靡した『夢二式』」。一九〇七年の用例、印刷媒体での広がり、身なりと流行。
- 京都国立近代美術館「川西英コレクション各章解説」。川西の回想、作品の保存、ベルリンで使われた墨画とテキスト。
- 国立国会図書館《夢二封筒模様 第一集》と書誌。一九一九年、イメージバンク
1182862_2。 - ピティナ・ピアノ曲事典「宵待ち草」。多忠亮の作曲者同定。詩の初出と刊行年は美術館年譜で別途照合。
- 国立国会図書館『新訳絵入伊勢物語』選択頁と書誌。一九一七年、画像
1908145_17。 - 竹久夢二伊香保記念館「竹久夢二とは」。彦乃との書簡、原画《黒船屋》、榛名のアトリエ。館の心理解釈は確定したモデル名としない。
- 「竹久夢二 時代を創る表現者」作品紹介。《黒船屋》原画と『婦人グラフ』三巻五号の正確な日付。
- 国立国会図書館『小説倶楽部』五巻三号と書誌。一九二一年表紙図
1479984_1。モデル名はない。 - 国立国会図書館『三越』十五巻六号《凉しき裝ひ》と書誌。一九二五年、画像
1524610_4。 - 国立国会図書館『三越』十五巻十号《野遊》と書誌。一九二五年、画像
1524614_13。 - 国立国会図書館『夢二抒情画選集』上巻と《シーサイド》頁。一九二七年刊。目次は一九二四年八月『婦人グラフ』初出を示す。画像
1688916_7。 - PBS SoCal、ロサンゼルスでの夢二と一九三二年展覧会の資料。現存するチラシと後年の家族の証言を区別。掲載写真の商用利用は未確認。
- 夢二郷土美術館「所蔵作品」。《西海岸の裸婦》の所蔵。館の画像は制作に使用しない。
- 京都国立近代美術館「川西英コレクション各章解説」。イッテン・シューレの墨画十点と一九三三年『日本画に就いて』。
- 金子宜正「ベルリンにおけるヨハネス・イッテンと日本人との交流」『デザイン学研究』50巻6号、二〇〇四年。抄録を確認。本文全体を読了したとは扱わない。
- ひろたまさき「台湾の夢二―最後の旅」『クァドランテ』16号、二〇一四年、63–76頁と国立国会図書館書誌。本文十四頁を確認。同時代の出来事と著者の解釈は区別。
- 臺灣近代美術檔案庫、警察會館の一九三一年写真研究。夢二の一九三三年展覧会に言及。写真の掲載権利は未確認。
- 千代田区文化財サイト「夢二繚乱」展案内。龍星閣による作品・資料の収集と没後の再評価。
- 国立国会図書館『婦人グラフ』三巻五号と書誌。イメージバンク
2799512_1。 -
大英博物館「Takehisa Yumeji」作者記録。後年の版と関係者の基本情報の照合。登録年を作者の制作年へ置き換えない。
-
千代田区立図書館「自伝的小説『出帆』に込められた夢二のこだわり」と千代田区の展示資料。一九二七年の『都新聞』連載と、後に残された挿絵原画・切抜帖。



