残された作品と記録を手掛かりに、生年の分からない宗達の仕事と俵屋の人々をたどります。

生没年より確かな手掛かり
俵屋宗達の生年と没年は分かっていない。家族や師についても、確かな記録は乏しい。美術館の解説に見られる「1570年頃―1640年頃」は活動期を示す便宜的な推定であって、誕生と死亡を記した二つの史料があるという意味ではない。宗達の生涯を追うとき、まず見えてくるのは京都の絵屋「俵屋」、制作に参加した人々、日付の残る色紙や絵巻、寺院と宮廷をめぐる記録である。作品の姿から分かることと、同時代の文書に書かれたことを区別しながら読めば、この資料の少なさ自体が宗達の仕事の特徴を教えてくれる。 [1] [2] [3]
同じ「1630年頃」という表示でも根拠は一様ではない。後世の研究者が筆遣いから推定した年代と、作品に添えられた奥書が寛永7年と記す年代では証拠の種類が異なる。寺が1621年に再建された事実から、そこにある襖絵が同年の完成作だと直ちに決めることもできない。扇の裏から別の絵師の名が見つかれば、宗達の工房に属する作品の作者像も変わる。このページでは「年月を記す資料」「収蔵館による帰属」「研究者の解釈」を分けて示す。 [4] [5] [6]
ひと目でわかる宗達
- 活動時期17世紀前半。生没年は不明
- 活動地京都を中心に活動
- 主な形式扇、色紙、巻物、屏風、障壁画
- 重要な年記1606年の色紙、1630年の絵巻、1631年の屏風
目次
絵師の名に先立つ「俵屋」の仕事
俵屋は扇、色紙、装飾した料紙を扱う京都の絵屋だった。スミソニアンの図録でジェームズ・T・ウラックは、当時の読み物に五条通の扇屋が登場し、既製品だけでなく注文にも応じたことを紹介する。ただし小説に書かれた所在地を、宗達本人の店の地番を記した土地台帳のように扱うわけにはいかない。奥平俊六は、当時の絵屋が扇絵や短冊の下絵に加え、屏風、建築の彩色など多様な制作に携わったことを説明する。小さな紙の意匠と部屋全体を占める障壁画が、同じ仕事の延長線上にあった。 [2] [6]
宗達が俵屋を誰から継いだのか、どこで絵を学んだのかは、この資料からは確認できない。確かめられるのは、17世紀前半に宗達がその制作を率い、公家、社寺、富裕な町衆と結び付いていたという活動の輪郭である。京都国立博物館も、宗達を単独で屏風だけを描いた画家としてではなく、扇絵から障壁画まで扱う俵屋の中心として位置づける。料紙の準備、絵、書、表装には別々の技術が必要だった。宗達の生涯を工房の歴史と切り離せない理由は、作品の多くがそのような分業を通して生まれたことにある。 [8] [6]
絵屋の名声が宮廷に届いていたことを示す資料もある。奥平が挙げる『中院通村日記』の1616年3月13日の記事では、後水尾天皇が別の絵師に扇面を描かせる際に「俵屋絵」を参考として見せたという。宗達本人がその場にいたとは書かれていない。それでも、俵屋の図様が宮廷で比較の基準になったことは読み取れる。また仮名草子『竹斎』に俵屋の扇が評判の品として登場する。作品の流通や知名度を考える材料だが、売上や取引相手の人数まで推定できる資料ではない。 [6]

1602年の平家納経修理
宗達の活動を考えるとき、慶長7年(1602)の『平家納経』修理は早い時期の重要な節目になる。厳島神社に伝わる経巻は、もともと12世紀の平家による奉納にさかのぼる。東京国立博物館の琳派展資料は、1602年の修理で新たに手が入った「願文」「化城喩品」「嘱累品」の表紙と見返しを、作風から宗達の筆と考えられるものとして紹介している。つまり修理事業の年が分かることと、特定の絵を宗達の手に帰すこととは同じ種類の証拠ではない。「宗達が『平家納経』全巻を修復した」と書けば、制作範囲も帰属の確かさも広げすぎる。 [9] [10]
それでも、この帰属が宗達研究で重視されるのには理由がある。経典の本文、絵、金銀の装飾を一体として考える古い制作物に、宗達の仕事が接続するからだ。後の和歌巻や色紙の装飾を、無から生まれた斬新な様式とだけ見ることはできない。王朝文化の再評価が進む京都で、古い表現を参照し、いま手に取れる紙へと作り直す技術が求められた。ウラックはこの修理を宗達の初期活動をうかがう機会とするが、東京国立博物館の「作風から」という語を残すことが、史料の強さを正しく伝える。 [2] [9]
ここで掲載する金地の色紙は『平家納経』の一部ではない。画像利用条件を確認できた別の作品を、修理された経巻の写真であるかのように見せないため、経巻そのものは収蔵・展覧会資料へのリンクで示す。作品を特定することは、伝記の年代を特定することと同じくらい大切である。 [9]
1606年の色紙と光悦
慶長11年(1606)の日付を持つ和歌色紙は、宗達と本阿弥光悦の関係をより具体的に伝える。クリーブランド美術館所蔵の一枚は、宗達による浜辺の松の下絵と、光悦による『新古今和歌集』の書を記録している。近衛信尹が関白を退いた機会と結び付く色紙群の一枚であり、スミソニアンの展覧会解説もその制作背景を述べる。書は絵の下についた説明文ではない。松と雲の形、余白、筆文字が同じ紙上で働く。二人の名を並べるだけではなく、どちらが何を担当したかを示すことが、この年記の価値を生かす。 [4] [11]
協働は色紙一枚で終わらない。ウラックが確認した図録序文には、金銀で装飾された巻物、嵯峨本の刊行に関わる仕事、光悦の書を受け止める料紙の制作が挙げられる。京都国立博物館の《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》では、宗達の鶴の下絵と光悦の和歌が約13.56メートルにわたって続く。ただし、この種の仕事を「宗達と光悦の二人だけが、始めから終わりまで同じ席で仕上げた」と決めつけることもできない。ウラックが紹介する奥平の研究は、紙を準備した職人や、印を残す神谷宗二にも注意を向ける。制作工程と関係者の数を開いたままにしておく方が、俵屋の仕事を正しく想像できる。 [2] [12]

宗達と光悦が近い関係にあったことと、すべての装飾料紙を二人の合作と呼べることは別である。下絵の作者を「伝宗達」または「宗達に帰属」とする収蔵館もあり、書かれた部分だけが光悦の直筆とされる場合もある。後に巻物へ仕立て直された色紙もある。伝記のなかで協働を重視するなら、一点ごとの帰属や現状の形を省略しないことが必要になる。 [4] [14]
扇面屏風に残る別の絵師の名
皇居三の丸尚蔵館の《扇面散屏風》は、俵屋の制作を一人の画家だけの仕事として説明しにくい理由を示す。八曲一双の屏風に、合計48枚の扇面が貼られている。スミソニアンの作品解説によれば、修理の際に一枚の裏から俵屋藤七郎の名が見つかり、「太藤」印を持つほかの扇と結び付いた。印のある扇は18枚に及ぶ。別の扇には「伊年」印の異なる形も使われている。『保元物語』『平治物語』などの軍記、『伊勢物語』、草花という画題の広さとともに、複数の担い手を考える必要がある。藤七郎の名が分かっても、宗達との血縁まで分かるわけではない。国際交流基金の出品リストでも「俵屋宗達、藤七郎」と「太藤印」の日本語表記を確認できる。 [5] [15] [31]
この屏風が宮中に伝わったことは確かでも、扇の絵が全部同じ日に描かれ、すぐに屏風へ貼られたことまでは証明しない。スミソニアンは17世紀前半、宮廷に近い注文を想定し、保存調査で見つかった紙の継ぎ目から、実際に折って使われた扇面もあると説明する。一つの屏風には、扇を描く、使う、選ぶ、貼るという複数の時間が重なっている。宗達は強い図様を生み、その工房を率いたと考えられるが、屏風にある線の一本一本を本人へ帰すことは、裏面の発見と矛盾してしまう。 [5]
なお、東京国立博物館にも同じ「扇面散屏風」という日本語名で呼ばれる別の作品がある。こちらは六曲一双に合計60面を貼り、「伝俵屋宗達筆」という帰属を持つ。48枚・八曲一双の皇居三の丸尚蔵館本とは、所蔵、扇の枚数、形式、作者表示のすべてが異なる。二つを混ぜれば、一人の絵師の活動を示すはずの数字や物証が架空のものになる。ここでは両館の記録へリンクし、どちらの展示写真も無条件に転載しない。 [15] [16]
養源院――1621年の再建と絵の制作年
京都の養源院は、扇や色紙より大きな仕事を考える場である。寺は火災の後、元和7年(1621)に再建された。京都市の資料は、宗達の松の間の襖絵、白象や唐獅子などの杉戸絵を紹介する。京都市公式観光資料では、本堂の襖12面、杉戸8面を宗達の作品として数える。扉を開閉すると絵の見え方が変わり、鑑賞者は紙一枚を持つのではなく、絵のある空間を歩く。しかし建物が1621年に完成した事実と、そこにある絵を同年に描き終えた事実は別である。文化庁の建物解説は室内の絵を「宗達の筆と伝える」と表現している。 [17] [18] [19]
奥平俊六による養源院の修理調査に基づく論考は、制作年を考え直す理由を具体的に述べる。従来は再建時の1621年、1626年頃、さらに後年とする見解があった。奥平は1629~30年の制作も十分ありうると論じる。杉戸の引手の下に絵がなく、白象の白い絵具が既に付いた引手をよけるように置かれている。通常の順序なら、絵を描いた後で金具を取り付けるはずだ。また松の襖は幅が少し長く、どの閉め方でも一部が隠れる。これらは限られた時間で制作・設置された可能性を示す物証である。ただし金具と絵の前後関係が分かることだけで「何年何月」と確定するわけではない。 [6]
養源院は浅井長政の供養に始まり、娘の淀殿、さらに妹の江(崇源院)と徳川家の関係を持つ寺である。奥平は、江の娘で後水尾天皇の后となった東福門院と天皇が、宗達の起用に深く関わった可能性を検討する。寺の紹介文には光悦と尾形家を経由する推薦の説明もある。しかし、どちらも宗達への注文書そのものではない。関係者を検討することはできても、特定の人物が宗達にこう語りかけたという場面を再現することはできない。後年の宮廷とのつながりを念頭に置きつつ、依頼の経路は研究上の仮説として示す。 [6] [20]
養源院の図版も、その作品に即して扱う必要がある。奥平の論文に掲載された修理写真は研究の資料であり、このサイトの商用画像として自動的に使えるわけではない。下に掲げるクリーブランド美術館の墨画は別の作品で、養源院の白象や松の襖の代わりの写真ではない。 [6] [22]

1630年の奥書が示す「宗達法橋」
宗達は後年「法橋」という称号を名乗った。仏教に由来する称号だが、ここから宗達が僧として寺に住んだと考える必要はない。スミソニアンの年表は授与を1621年に置く。一方、出光美術館が所蔵する《西行物語絵巻》には、少なくとも1630年までにその位にあったことを示す明確な記録がある。称号を得た日付そのものが記されたわけではないから、確実な下限と授与の推定日を混同しない。 [1] [23]
出光本の奥書は烏丸光広による。寛永7年(1630)、本多富正の依頼を受け、光広が「宗達法橋」に禁裏の絵巻を写させ、詞書は自ら担当したという。作業を依頼した人、橋渡しをした公家、絵を描いた人、文字を書いた人が具体的に分かる。出光美術館は、これを宗達作品で制作年が明らかな特に重要な例とする。宗達が写した「禁裏御本」は現存しないため、その元絵の線や色を実物と一対一で比較することはできない。模写という仕事にも筆致や構成の判断があるが、どの部分をどう変えたかは現存資料から慎重に考えるべき問題である。 [23]
MOA美術館には同じ伝統に属する《西行物語絵巻》の断簡があり、画を宗達、詞を光広と記す。文化庁も巻第三の断簡を別個に記録している。断簡を出光本の一場面と無説明で混ぜたり、失われた禁裏御本の画像であるかのように示したりしないことが必要だ。年記のある奥書が強い史料であるからこそ、現存する巻、断簡、失われた手本を区別したい。 [23] [24]

1630年の書状と1631年の源氏絵
奥平が紹介する1630年暮れの書状からは、別の形の注文が見える。後水尾院と弟の一条兼遐との間で、宗達の手になる屏風の下絵三双が話題になり、そのうち一双には既に金箔が置かれていたという。奥平は法橋叙任への礼として贈られた可能性を考えるが、贈答の目的は書状だけで証明されたわけではない。また「下絵」をめぐるやり取りは、完成した三双が今日まで残るという意味でもない。制作途中の画面が確認され、宮廷で「宗達屏風」として知られたことが、この資料の確かな面白さである。 [6]
その翌年の《源氏物語関屋澪標図屏風》には、もう一つ明確な日付がある。静嘉堂文庫美術館はこの国宝を寛永8年(1631)の作とし、「法橋宗達」の落款を記録する。奥平が引く醍醐寺の『寛永日々記』には、1631年9月13日に三宝院へ「源氏御屏風一双」が納められたことが載る。屏風は後に醍醐寺から岩崎家へ移り、現在は静嘉堂にある。作品名、納入先、後年の所蔵先をつなぐことで、宗達の仕事が京都の寺院から近代の美術収集へ移った過程もたどれる。 [6] [26]
同じ「関屋」の名を持つからといって、東京国立博物館の《関屋図屏風》を静嘉堂の一双の片隻にしてはいけない。東京本は別の作品で、文化財記録では「伝俵屋宗達筆」とされる。烏丸光広の書が場面を特定し、書風と花押から1633~38年頃と推測される。静嘉堂本の「1631年」と東京本の「1633~38年頃」は、同じ『源氏物語』の場面を扱う異なる物に付いた日付である。画像、所蔵館、落款の有無を確認して初めて、伝記の年代として使える。 [27] [26]
ここまで来ると、宗達の制作を取り巻く人々は以前より鮮明になる。1630年の絵巻には依頼者の本多富正、仲介し書を書いた烏丸光広、画を写した宗達がいる。書状には屏風の下絵と宮廷での検分が現れ、翌年の源氏絵には納入先と落款がある。養源院の画面は大きな仕事を伝えるが、制作時期は議論の余地がある。仕事と交流の輪郭は濃くなっても、宗達の容貌、配偶者、修業の師が分かったわけではない。こうした非対称を残した記述こそ、残る証拠の姿に忠実である。 [6] [23] [26]
最晩年と工房の継続
1630年と1631年の記録の後も、宗達に結び付く作品はある。しかし連続した日記が手元にあるわけではない。メトロポリタン美術館の《White Heron》は、署名、印、筆遣いを合わせて宗達の直接作とみなす墨画だが、制作年は「17世紀前半」と大きく取られている。クリーブランドの《住吉浜》とメトロポリタンの《宇津山》は1634年頃とされる。これは作品の年代表示であり、宗達がその土地を訪問した記録でも、晩年の月ごとの仕事表でもない。画題が地名であっても、文学上の場所と実際の旅行を同一視しない。 [7] [13] [25]
「伊年」印のある作品を次々と宗達本人の作に数えることにも慎重でありたい。ウラックはその印が宗達の作、工房の作、没後に画風を継いだ作にまたがると説明する。クリーブランド美術館の《雷神図》も「宗達の工房」と明示されている。一方、京都国立博物館は建仁寺に伝わる《風神雷神図屏風》について、署名も印もないが宗達作と認める。図像が似ていても、画面形式、所蔵、帰属の根拠が違う。本文の《雷神図》を建仁寺屏風の部分図として扱うことはできない。 [2] [21] [28]

宗達の没年についても、館によって「1642年以前」「1643年か」など表記が異なる。出光美術館は生没年不詳とする。奥平が示す1642年11月29日の日記には、俵屋宗雪が既に法橋として記される。宗雪が俵屋の後継者であり、宗達がこの頃までに亡くなっていたという見方には理由があるが、宗達自身の死亡記事ではない。日付、死因、享年をそこから創作することはできない。工房の活動が続いたことも、その後の作品すべてを宗達の生前作とする証拠にはならない。 [23] [26] [3] [6]
クリーブランドの《佐野の渡り》や《子犬とタンポポ》(和題は仮訳)は、どちらも「宗達の工房」として収蔵されている。古典文学の場面と動物を描く墨画では主題が異なるが、俵屋の作り方が本人の作品だけで閉じなかったことを示す。工房の継続を語る図版としては有用でも、「宗達はこの年に佐野へ旅し、次の年に子犬を見て描いた」という伝記にはならない。俵屋の次代へ受け継がれた意匠と、宗達本人の確認できる活動期間を分けて考える。 [29] [30]


後世に作られた「宗達の伝記」
宗達についての知識も、17世紀からそのまま保たれてきたわけではない。ウラックは、チャールズ・ラング・フリーアらが収集と比較を進める一方、日本の研究者も作品のまとまりを見定めていった過程を述べる。1913年の展覧会は宗達への注目を高めた。その後、墓の場所を含む「一人の偉大な画家」の生涯を完成させようとする試みもあった。しかし後世の展覧会や、当時の期待を反映した墓の同定は、出生地や没年を記した一次資料とは別物である。近代に個人画家として再発見された歴史と、俵屋の仲間とともに制作した宗達自身の仕事の歴史を重ねすぎないようにしたい。 [2]
年記がある1630年の《西行物語絵巻》と1631年の源氏絵、1606年の色紙、1616年の宮廷日記、修理によって藤七郎の名が判明した扇面屏風は、宗達の活動を確かめる強い手掛かりである。その間に置かれる養源院の絵は重要だが、建物の年と絵の年を同じにしない。このように資料の種類を分けると、未知の幼年期を埋めなくても、紙、書、屏風、寺院、宮廷へ仕事を広げた京都の絵師像が現れる。作品の画面そのものを比較するには、俵屋宗達の概要へ進んでほしい。 [6] [23] [26]
年代と資料の強さ
| 年 | 資料が示すこと | 確かさ |
|---|---|---|
| 1602年 | 『平家納経』の修理。特定の表紙・見返しは作風から宗達作と考えられる。 | 修理年は明確。個別の筆者は様式による帰属。 |
| 1606年 | 近衛信尹の退任に関わる色紙。宗達の下絵と光悦の書。 | 年記のある現存作品。 |
| 1616年 | 宮廷の日記に、扇面の参考とされた「俵屋絵」。 | 店の図様が宮廷に届いた記録。宗達の面会記録ではない。 |
| 1621年 | 養源院の再建。 | 建物の年は明確。絵の制作年は未確定。 |
| 1630年 | 《西行物語絵巻》の奥書に「宗達法橋」。 | 年記のある現存資料。 |
| 1631年 | 源氏絵屏風一双が醍醐寺三宝院へ納入。 | 日記による納入日と特定作品。 |
| 1642年 | 後継者とみられる宗雪を法橋と記す日記。 | 宗達の没年を推定する間接資料。 |
よくある質問
読者との対話
作品と史料を見比べ、宗達と俵屋の制作について考えてみてください。
鑑賞の手がかり
1630年の奥書から分かることと推測に留まることは何ですか。
建物の1621年再建と絵の制作年を分けると何が見えますか。
藤七郎と宗雪の記録は宗達一人の伝記に何を加えますか。
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参考資料
- スミソニアン国立アジア美術館「宗達:創造の波」年表。活動年代と、生没年・家族・師が不明であることを明記。
- James T. Ulak, “Introduction,” Sōtatsu: Making Waves, Smithsonian Institution, 2015, pp.10–17。図録原文を通読。
- 大英博物館の俵屋宗達作家記録。推定没年と作品帰属の幅。
- クリーブランド美術館《浜辺の松図を伴う新古今和歌集の和歌色紙》、1987.60。宗達と光悦の担当と1606年の年記。
- スミソニアン《扇面散屏風》作品解説。皇居三の丸尚蔵館の48扇面、藤七郎の名と印の調査。
- 奥平俊六「養源院の宗達―修理によってわかったこと―」、公益財団法人京都市文化観光資源保護財団『会報』135号、2022年12月、2–5頁。日本語原文を通読。保存用PDFは
sotatsu/research-pdfs/okudaira-yogenin-conservation-2022.pdf。 - メトロポリタン美術館《White Heron》、2018.853.13。署名・印と直接作の説明。
- 京都国立博物館「琳派 京を彩る」。俵屋の仕事と公家・社寺・町衆の注文。
- 東京国立博物館「大琳派展」報道資料。1602年『平家納経』修理と特定部分の様式による宗達帰属。
- 東京国立博物館「大琳派展」出品目録。『平家納経』三巻等の作品同定。
- スミソニアン「Sōtatsu: Making Waves」展覧会解説。1606年の色紙群と制作背景。
- 京都国立博物館《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》、A甲364。宗達の下絵、光悦の書、寸法。画像の転載条件は別途確認が必要。
- クリーブランド美術館《伊勢物語図色紙 住吉浜》、1951.398。1634年頃の色紙と現状の表装。
- クリーブランド美術館《古今和歌集》浜辺の松下絵巻、1972.67。光悦の書と宗達「に帰属」する下絵。
- 皇居三の丸尚蔵館《扇面散屏風》、管理番号SZK002945。八曲一双、48扇面。
- 文化遺産オンライン《扇面散屏風》。東京国立博物館の別作品。六曲一双、60扇面、「伝俵屋宗達筆」。
- 京都市ミュージアム検索「養源院」。寺の沿革と杉戸絵等。
- 京都市公式観光Navi「養源院」。襖12面と杉戸8面の記述。
- 文化遺産オンライン「養源院客殿」。1621年の再興と「宗達の筆と伝える」室内画。
- 養源院公式サイト「俵屋宗達」。依頼の経路について寺の見解を記す。
- クリーブランド美術館《God of Thunder (Raijin)》、2004.86。「宗達の工房」帰属と「伊年」印。
- クリーブランド美術館《鳥窠道林禅師像》、1958.289。宗達の直接作とする墨画。
- 出光美術館《西行物語絵巻》。1630年の奥書、関係者の役割、「宗達法橋」の記載。
- MOA美術館《西行物語絵巻断簡》。宗達の画と烏丸光広の詞書。
- メトロポリタン美術館《Mount Utsu》、2015.300.88。1634年頃の『伊勢物語』色紙。
- 静嘉堂文庫美術館《源氏物語関屋澪標図屏風》。1631年、落款と後年の伝来。
- 文化遺産オンライン《関屋図屏風》。東京国立博物館の別作品。「伝俵屋宗達筆」。
- 京都国立博物館《風神雷神図屏風》。建仁寺伝来の一双と帰属。
- クリーブランド美術館《佐野の渡り》、1949.554。「宗達の工房」帰属。
- クリーブランド美術館《Puppy with Dandelions》、1992.382。「宗達の工房」帰属。
- 国際交流基金「宗達:創造の波」展作品リスト。俵屋藤七郎と太藤印の日本語表記。



