役者絵、美人画、源氏絵を、所蔵館に残る一枚の題と図柄から読み解きます。

歌川国貞の絵を、誰が何を見るために買ったのか
歌川国貞(うたがわ・くにさだ、1786年生、元治元年十二月没)は、江戸の人々が芝居、装い、流行の読み物に向けた目を版画へつなげた絵師である。晩年は師匠の名を受け継いで豊国を名乗り、今日の所蔵館では「三代歌川豊国」と表記される。役者絵と美人画で名を上げたが、合巻の挿絵、源氏絵、武者絵、少数の風景画も残した。一枚を見るときには、誰が描かれているかだけでなく、版元がどのような客に届けようとしたかを考えたい。 [1] [2] [3]
太田記念美術館は国貞を当時の江戸の話題を描き続けた絵師として紹介する。その比喩は、芝居の新しい役、吉原の名の知られた人、季節の食べ物が次々と版画になった事実を伝える。ただし版画をそのまま「写真のような記録」と呼ぶのは違う。役者は衣装と隈取を付け、美女は図案のなかに配置され、名所は物語や和歌の題に変わる。今日まで残った一枚には当時の熱気と、絵として考え抜かれた構成の両方がある。 [1] [4]
團十郎の見得を細部から読む
番号を押すと、高解像度の館蔵画像から作った細部を拡大できます。全図の位置を確かめてから、下の説明と比べてください。
注釈画像の細部
隈取と見得
白と赤の隈取、寄せた目、口元の力みが荒事の見得を作る。役者の普段の表情ではなく、菅丞相が雷神へ変わる舞台の一瞬である。

クリーブランド美術館 作品記録 1985.333。編集部による切り抜き・縮小。
最初に見るのはクリーブランド美術館が1814年とする、七代目市川團十郎の菅丞相を描いた館蔵品である。英文の館蔵題は Ichikawa Danjuro VII as Kan Shojo in the Mt. Tenpai Scene, from the series Famous Kabuki Plays。七代目市川團十郎という役者、菅丞相という役、天拝山という場面、そして連作名が一つの題に入る。人物の本名や素顔を見せる肖像ではなく、上演の一瞬を紙に留めた役者絵として読み始められる。 [5]
ひと目でわかる国貞
- 生没年1786年–元治元年十二月(西暦1865年1月)
- 主な活動江戸後期の浮世絵
- 主な画題役者絵、美人画、合巻挿絵、源氏絵
- 見る手掛かり役と役者、落款、版元、摺りの違い
目次
館の作品解説によれば、画面は追放された菅丞相が雷神へ変わる場面で、七代目團十郎の荒事の身振りがその転換を示す。白と赤の隈取、寄せた目、食いしばった口元を、梅の枝が横切る。保存した高解像度画像では、髪の長い線の間にも梅の花が見え、右上の枠に文字が入る。目だけを切り抜くと「怖い顔」で終わるかもしれないが、枝と髪と文字へ順に目を移すと、役の変化と一枚の構成が結び付く。ここは注釈画像が実際に役立つ場所である。 [5]
舞台上の「見得」は、動きの途中で姿勢を決め、感情を観客へ向ける仕組みである。フィッツウィリアム美術館の歌舞伎展示は、当時の役者絵が演目の上演時期に合わせて売られたこと、顔つきだけでなく役名、紋、詞書が読み手の手掛かりになったことを説明する。同じ役を別の役者が演じ、同じ役者が別の役を演じる以上、「團十郎の絵」とだけ呼ぶと作品の内容が失われる。七代目という代数も、家の名跡を継ぐ芝居の世界では大切な情報である。 [6] [7]
役者の顔、役の名、絵師の落款
役者絵を読むときは、少なくとも四つの名を分けたい。第一に演じる役者、第二に劇中の役、第三に絵を描いた絵師、第四に版を企画し売る版元である。そこへ彫師、摺師、検印などが加わる一枚もある。フィッツウィリアム美術館が例示する別の国貞の役者絵では、大きく書かれた役者名の傍らに小さな役名があり、絵師の署名、版元の印、役者の自作の句がそれぞれ別の場所に置かれる。文字は飾りではなく、図像を読む道具になる。 [8]
顔の扱いにも歴史がある。歌舞伎役者の似顔絵は、現代の写真に似ていればよいという意味ではない。鼻、口、目、眉にその役者らしい特徴を選び、見得や化粧と合わせる。初代豊国は1817年、役者の似顔を描く方法を記した本を出したとフィッツウィリアム美術館は紹介する。国貞の《菅丞相》を見れば、眉と目は感情を演じる道具でもある。顔の誇張から役者の私生活や性格まで言い当てたつもりにならないようにしたい。 [9] [5]
舞台名と紋も変わり、受け継がれる。市川家の三つの枡を重ねた三升の紋は、役者を見分ける手掛かりになるが、紋だけで制作年は決められない。名跡は父から子へ渡ることがあり、七代目團十郎は1832年に團十郎の名を息子へ譲って、のちには五代目海老蔵と名乗った。版画の年代を確かめるには、何代目がどの演目を、いつ、どの座で演じたかという記録も必要になる。落款と見える姿だけを頼りに急いで同定しない。 [7] [10]
役者絵の売られ方は、その保存のされ方とも違う。上演の話題に合わせて買い、壁や屏風に貼って楽しむ人もいた。一方、丁寧に帖へ収めた人がいたから、今日の館蔵品がある。フィッツウィリアム美術館は、通常の大判錦絵が比較的手に入れやすい値段だった一方、雲母、金属顔料、空摺り、艶摺りなどを加えた特別な摺りもあったと説明する。すべての役者絵を安価な同じ品質の量産品とも、すべてを豪華な注文品とも言えない。まずその所蔵品の技法欄を見る。 [6]
例えばクリーブランドの《菅丞相》は技法欄に雲母を含む。だが写真で灰色の地が見えることと、画面のどの粒子が雲母かを判定できることは別である。注釈では、実物の館蔵記録に雲母がある事実と、画像上で確実に見える目・梅・落款とを分けて示したい。高解像度原本から300dpiの作業画像を作り、説明に使う場所だけ1024px幅の品質80、144dpiで書き出す。番号付きの拡大窓と下の説明は、承認済みの共通形式を使う。 [5]
美人画を「江戸の日常」と読む前に
太田記念美術館は国貞の美人画を、着こなし、季節、食べ物、芸事と結び付けて紹介している。題材は豊かだが、絵に見える動作をそのまま生活史の写真に変えてはいけない。版元が選ぶ題、詩歌、流行の装い、描かれた人の職業が一枚に重なる。役者の女方、吉原の遊女、名前を持たない女性像は、同じ「美人」という語で紹介されても立場が違う。作品ごとに題と人物の根拠を確かめる。 [4] [6]
1820年頃の《灯を消す女》は、クリーブランドの連作題では Modern Customs: Frost Beneath the Stars の一枚である。背の高い灯火に身を寄せる動きと、その周囲に残された空間が画面をつくる。灯を消すという小さな出来事から、誰かの名前や身分、物語の結末まで分かるわけではない。むしろ図像に確かにある動作を見てから、連作題が添える詩的な気配を受け取る順がよい。 [11]

クリーブランドの《Woman Leaving a Bath House》は1820年代半ば頃の所蔵品で、英文連作題は Pictures from Otsu である。絵の中の女の動きと「湯屋を出る」という館蔵題を説明できる一方、特定の湯屋の建物を写した資料だとは言えない。「大津」という語が題にあっても、現在の町の写真と重ねるための地理情報が揃っているわけではない。場所をめぐる古写真を本文に置くなら、版画と同じ地点を写すのか、単なる時代の参考なのかを明示する。ここでは全図だけで人物の動きを伝えられる。 [12]

《浮世六玉川》の《手鏡を持つ女》では、鏡を見る動作と、和歌の名所を示す「玉川」という言葉とが同居する。六つの玉川は昔から歌に詠まれた名を呼び出す仕組みであり、この所蔵品を見ただけで特定の川の岸が描かれたと決める理由はない。題名を読む前は鏡と着物が中心に見える。題を読んだ後には、場所や和歌への見立てを探す目が生まれる。日本語の読者にも、シリーズ全点の内訳を確認しないまま一つの川や一首を割り当てない慎重さが要る。 [13]

後の《初鰹》は1844–48年頃とされる。初物の魚が題になれば、女性像は季節の食べ物や買い物の気配と切り離せない。1850年頃の《梅の木のそばに立つ女》では、梅の枝が人物の見え方を変える。太田記念美術館の2016年の展示が国貞の食や季節への関心を強調することと、クリーブランドの二枚の具体的な題はよくつながる。それでも「江戸のすべての女性がこの姿をした」とは書けない。流行を示す版画と、実際の人口全体の服装調査は別である。 [4] [14] [15]


美人画が木版画だけだったわけでもない。千葉市美術館の肉筆画《花魁図》は絹本着色の掛軸で、天保期の作とする。賛に吉原の大文字屋の主・加保茶元成の狂歌があり、遊女・一元が書をしたことを館は解説する。図の花魁も一元を描いたと思われるが、館は顔立ちがこの頃の国貞の標準的な美人画様式でもあると注意する。名前を持つ人物への推定と、描写が類型的であるという見方は両立する。ここでは画像を転載せず、作品記録へ参照を置く。 [16]
中国の武人、伊勢の海
太田記念美術館の回顧展は、国貞が役者絵と美人画以外にも武者絵や少数の風景画を手がけたことを示す。クリーブランドの1820年代後半頃の《The Military Tales of Han and Chu: Fan Kuai of the Han》はその幅を示す一枚である。題の樊噲は中国の漢に関わる人物であり、画面の迫力だけで「日本の侍」と呼ぶと主題を間違える。芝居の役者を大きく描くことと、故事の英雄を大きく描くことは、構図が近くても読み手へ問う名前が異なる。 [1] [17]

《伊勢海辺の鮑採り》は1830年代初めの横長の版画で、クリーブランドは無題の風景連作の一枚としている。舟と海と沿岸の広がりが、大首絵の顔を追う目を別の方向へ動かす。採る人々と海を描いたことは作品から分かるが、国貞が伊勢に旅行して現場を写生したとまでは館の記録から言えない。版元・山口屋藤兵衛は制作者欄に出るが、役割は「出版」であり、もう一人の画家ではない。 [18]

武人の物語、海で働く人々、芝居のスターは、同じ絵師の作でも用途が同じではない。美術館の「歌川国貞」で検索すれば並んで現れるが、最初の買い手には別の関心があったはずだ。国貞の画業が広いという説明は、画題を一つに均すためではなく、題・役割・版元・人物の種類を正確に分けるための入口になる。 [1] [6]
『偐紫田舎源氏』は誰の本か
『偐紫田舎源氏』は柳亭種彦が作り、国貞が挿絵を描いた合巻である。国立国会図書館のレファレンス事例は、文政十二年の初編から天保十三年の三十八編までが刊行され、三十九・四十編は未刊の草稿が残ると整理している。紫式部の『源氏物語』の原文に挿絵を付けた本ではなく、元の物語を当世の読物へ移した翻案である。作家と絵師の仕事を一人の名へまとめないことが、この題を紹介する最初の条件になる。 [19] [20]
太田記念美術館は源氏絵の展覧会で、王朝風の『源氏物語』図、当世風の見立絵、合巻『偐紫田舎源氏』から広がった絵を区別した。いずれも「源氏」の名を持ち得るが、光源氏と、翻案に登場する足利光氏を同じ人物として扱うわけにはいかない。国貞の絵が読物の人気を押し広げ、読物が新しい版画の題を生む。その往復が十九世紀の源氏絵を形づくった。古典の図像をそのまま写すだけの活動ではない。 [20]
クリーブランドの《村荻》は1830年代の、同館が『偐紫田舎源氏』に結び付ける錦絵の揃物の一枚である。物語から派生した印刷物であり、綴じられた合巻の一頁ではない。ここを間違えると、本の発行年代、画面の形、読者の使い方まで混ざってしまう。紹介文では「国貞が本を描いた」ことと「本の人物をもとに別の錦絵が出た」ことを続けて説明できる。いずれ書物自体の頁を図示するには、国会図書館などの個別巻と画像に付いた再利用条件を確認する必要がある。 [21] [19]

同じ国立国会図書館は、国貞=三代豊国と推定される役者絵本の稿本《姿見早稽古》も紹介する。半丁ごとに役者一人を描き、二十八人の姿と句を組み合わせたものだが、刊本は確認できないという。絵師名そのものも頁にない。序文の「亀戸の画叟おやだま」という言葉から豊国と推定するのが館の説明である。つまり、版画として刷られた作品ではないもの、署名がなく帰属を慎重に考えるものが国貞の周囲にはある。この一件だけで「すべての晩年の役者絵本は本人の直筆」と広げてはいけない。 [22]
東海道の人と風景は一種類ではない
東海道と聞けば広重の保永堂版を思い浮かべる人が多いだろう。国貞はその人気に関わる複数の仕事をした。太田記念美術館は、保永堂版の背景を取り入れて前面に女性を置く「美人東海道」、宿場と役者を結び付ける「役者東海道」、そして広重が背景・国貞が人物を分担した《双筆五十三次》を区別する。どれも宿場名が関わるからと一つの連作にすると、図柄だけでなく著作者の役割も混乱する。 [23]
前景の女性は、背景の宿場と必ずしも同じ場所に立った実在の旅行者ではない。役者が宿場を背にした絵も、その俳優がそこで興行した証拠にはならない。さらに二人で描く《双筆五十三次》では、同じシートに名を載せるという具体的な共同制作がある。この三つの関係を地図や一覧にするなら、駅名だけでなく連作名、絵師、人物の種類、版元を列に分けるべきだ。現段階では個々の全点を調べた一覧ではなく、作品の読み分けを説明するに留める。 [23]
クリーブランドの1854年の《雪の庭》は横75センチの三枚続で、館は広重と国貞の二人を制作者とする。これを国貞単独作として使ってはいけない。一方、二人の名があるからといって、《雪の庭》を《双筆五十三次》の宿場図へ入れてもいけない。作品台帳の題と連作欄がその同定を支える必要がある。ここでは、画面を左右にたどる三枚続の広さと、二人をきちんとクレジットすること自体に説明の意味がある。 [24]

改印、落款、版の違い
国貞が弘化元年頃に豊国を名乗ると、自作に「二代豊国」と読める署名を入れた。しかし初代豊国の後に豊重が豊国を名乗っていたため、今日では国貞を三代豊国と呼ぶ。この事情を知らないまま、ある展示の「二代豊国」と別館の「三代豊国」を別人と数えれば誤る。国貞の旧名のほか、五渡亭、香蝶楼、一陽斎などの号にも目を向けたい。ただし号と落款だけで一枚の年を一点に定められない。 [2] [25]
立命館大学の倉橋正恵は、国貞の署名を並べた表の有用性と限界を指摘する。役者絵なら上演の年月日と劇場、人物の名、版元の情報を合わせる。再版では昔の版木が別の役者に合わせて修正される例もある。フィッツウィリアム美術館が示す1831年と1835年の例では、顔と名前を彫り直し、使う色版の数や仕上がりも変えた。似た構図があるだけで、二枚を同じ興行に属する「同じ状態の版画」と見なせない。 [26] [27]
同じ図柄の異なる摺りを区別するには、所蔵番号が役立つ。クリーブランド1985.333と記せば、世にある《菅丞相》の図柄全体ではなく、その美術館にある紙の一枚を指す。幅、高さ、紙や色の状態、所蔵歴はその現物に付く。別館の写真を見て感想を書くことはできても、クリーブランドの画像へ別館の所蔵番号や許諾条件を移せない。本文の図版十点は、各館蔵品のURL、番号、制作者、寸法、権利、原画像と表示用画像を台帳で結んだものである。 [28]
江戸後期の出版統制も同定に関わる。天保十三年の改革では役者の似顔や遊女を題材にする錦絵に厳しい制限がかかったと太田記念美術館は説明する。英国のフィッツウィリアム美術館は、版元が芝居の人物を忠臣や古人に見立てるなどの工夫をしたことを記す。規制があったから役者絵が一斉になくなった、という話ではない。名が隠れたり、古い物語の格好を借りたりすることで絵が続く場合がある。題に見える人物と当時の観客が思い出した役者との距離を調べる必要がある。 [3] [6]
国貞の晩年を「量が多くなっただけ」と見るのも単純である。太田記念美術館によれば、最晩年の《江戸美人尽》には四十二図が確認されるが、下絵や版下だけが残り出版には至らなかった。一方、《今様三十二相》など実際に刊行された晩年の美人画もある。出版済みの錦絵、未刊の下絵、帰属が推定である稿本を同じ一覧へ入れるなら、それぞれの制作段階を明記したい。何が市場へ出て、何が残された計画だったかで、国貞の仕事の見え方が変わる。 [1] [29] [22]
没年にも注意がいる。国立歴史民俗博物館の《三代豊国死絵》は「元治元年十二月十五日没」と書く。日本の館が1786–1864年と記すのは元治元年を西暦1864年に対応させるためである。一方、この十二月は現在のグレゴリオ暦では1865年一月に当たるので、欧米の館には1786–1865年とある。調査した資料の間で換算後の日付には相違があるため、このトップページでは一月の何日かを断定しない。違う没年を見て別の「国貞」をつくり出さないことが大切である。 [30] [2]
次に読むなら
このページの十点は国貞の全作でも、各連作の全図でもない。舞台の一瞬を表す大首絵、暮らしのしぐさ、故事の英雄、伊勢の海、合巻の人物、二人の絵師による三枚続を選び、題を読み間違えずに行き来できる入口とした。伝記では豊国門下への入門と襲名、仕事を支えた人々、確実な年記と分からない点をたどりたい。『偐紫田舎源氏』、東海道の複数の連作、晩年の未刊下絵には、それぞれ独立した資料整理が必要である。まずは目の前の紙が、誰のどのような仕事として作られ、残ったのかを問い続ける。 [1] [19] [23]
よくある質問
同じ絵師です。国貞は1844年頃に師匠の豊国の名を継ぎ、自ら二代と記すこともありましたが、今日の多くの所蔵館では先にその名を使った豊重を二代、国貞を三代と数えます。 [25]
《双筆五十三次》で共同制作をしました。太田記念美術館は広重が背景、国貞が前景の人物を担当したと説明します。ただし国貞単独の美人東海道、役者東海道とも異なる連作です。 [23]
元治元年十二月十五日という旧暦の日付は、現在の暦では1865年一月に入ります。1864年表記は元号の年、1865年表記は換算した西暦の年を反映します。 [30]
読者との対話
国貞の一枚から、役者、物語、版元と摺りの違いをどう読み分けられるか考えてみましょう。
鑑賞の手がかり
七代目團十郎の似顔と菅丞相という役を、画面のどこで読み分けますか。
《村荻》は『偐紫田舎源氏』の本文頁とどこが異なりますか。
《雪の庭》の三枚続を見ながら、国貞と広重の共同制作をどう紹介しますか。
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参考資料
- 太田記念美術館、「没後150年記念 歌川国貞」(2014年)。
- 小田原市デジタルアーカイブ、「歌川国貞=三代豊国」。
- 太田記念美術館、「国貞・国芳・広重とその時代」(2008年)。
- 太田記念美術館、「歌川国貞~和の暮らし、和の着こなし。」(2016年)。
- クリーブランド美術館、《Ichikawa Danjuro VII as Kan Shojo in the Mt. Tenpai Scene》、所蔵番号1985.333。
- フィッツウィリアム美術館、「Introducing Kunisada and Kabuki」(2001年展)。
- フィッツウィリアム美術館、「Actors' Names and Crests」。
- フィッツウィリアム美術館、「How to Read an Actor Print」。
- フィッツウィリアム美術館、「True Likenesses (nigao)」。
- フィッツウィリアム美術館、「Ichikawa Danjūrō VII」。
- クリーブランド美術館、《Woman Putting Out a Light》、所蔵番号1930.201。
- クリーブランド美術館、《Woman Leaving a Bath House》、所蔵番号1940.711。
- クリーブランド美術館、《Woman with a Hand Mirror》、所蔵番号1916.1131。
- クリーブランド美術館、《First Bonito of the Year》、所蔵番号1940.1013。
- クリーブランド美術館、《Woman Standing Beside a Plum Tree》、所蔵番号1916.1172。
- 千葉市美術館、《花魁図》、所蔵番号2901010。
- クリーブランド美術館、《The Military Tales of Han and Chu: Fan Kuai of the Han》、所蔵番号1980.86。
- クリーブランド美術館、《Abalone Divers off the Coast of Ise》、所蔵番号1916.944。
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース、「『偐紫田舎源氏』について知りたい」(2013年)。
- 太田記念美術館、「源氏物語誕生1000年記念 浮世絵の中の源氏絵」(2008年)。
- クリーブランド美術館、《Muraogi, from the series The False Murasaki's Rustic Genji》、所蔵番号1985.334。
- 国立国会図書館電子展示会、「あの人の直筆:三代歌川豊国《姿見早稽古》」。
- 太田記念美術館、「東海道五十三次の世界――広重と国貞」(2012年)。
- クリーブランド美術館、《The Snowy Garden》、所蔵番号1940.989。
- フィッツウィリアム美術館、「Kunisada's Names」。
- 倉橋正恵、立命館大学、「A List of Kunisada's Signatures: Its Usefulness and Problems」。
- フィッツウィリアム美術館、「The Reuse of Printing Blocks」。
- クリーブランド美術館、Open Accessと画像の再利用条件。個別の画像権利は別の所蔵品台帳で確認。
- 太田記念美術館、「幕末・明治の美女たち」(2013年開催)。
- 国立歴史民俗博物館、《三代豊国死絵》、資料番号F-320-576。グレゴリオ暦の一月の日付については資料間に相違があるため本文では日を示さない。





