歌川国貞の生涯

著者:
Tom Gurney は美術史を20年以上研究しています。英国サルフォード大学 BSc (Hons)。
日本語版 最終更新:2026年9月25日
メール:tomgurney1@gmail.com / 電話:+44 7429 011000

所蔵品と史料に残る年紀を手がかりに、国貞の修業、襲名、晩年の工房をたどります。

歌川国貞、七代目市川團十郎の菅丞相、クリーブランド美術館
歌川国貞、七代目市川團十郎の菅丞相、1814年。クリーブランド美術館 1985.333。 作品記録。

歌川国貞の生涯を何からたどるか

歌川国貞の姿を知りたいと思っても、本人の日記が生涯を順に語ってくれるわけではない。残るのは、国貞と署名された錦絵、刊行年の分かる本、同時代の役者や版元の名前、そして没後に作られた死絵である。役者絵の一枚は舞台の上の誰を描いたかを示しうるが、絵師の私生活をそのまま記録したものではない。この伝記では、確かめられる年記と作者名を手掛かりに仕事の変化を追い、証拠のない逸話で間を埋めない。 [1] [2]

国貞は1786年生まれで、初代歌川豊国の門下に入った。国貞は師匠から受けた画名であり、のちに豊国の名を継ぐ。現在「三代歌川豊国」と呼ぶ作品の作者と「初代歌川国貞」は同一人物である。ただし、錦絵に「二代豊国」と記されたものもある。呼び方の違いは人物が二人いたという意味ではなく、先に豊国を名乗った豊重を代数に入れるかという継承上の相違に由来する。 [3] [4]

太田記念美術館は、二十二歳で浮世絵界に登場してから晩年まで役者絵や美人画を中心に制作したと紹介する。小田原市の解説と英国フィッツウィリアム美術館の署名案内は、活動の始まりを1807年頃に置く。これらは職業画家としての出発を示すが、修業を始めた日付や「最初の一枚」を決める資料ではない。作品が世に出た年と、師のもとで学び始めた年は区別したい。 [1] [3] [5]

ひと目でわかる国貞

  • 生没年1786年–元治元年十二月(西暦1865年1月)
  • 師匠初代歌川豊国
  • 名の変化国貞から豊国へ、1844年頃
  • 晩年の資料未刊稿本と二種の死絵

目次

  1. 歌川国貞の生涯を何からたどるか
  2. 豊国門下と役者絵の市場
  3. 役者の似顔を読む仕事
  4. 美人画と本の仕事
  5. 天保改革と豊国襲名
  6. 晩年の工房と未刊の仕事
  7. 死絵が伝える日付と伝えないこと
  8. 作品と名前を残した人々

豊国門下と役者絵の市場

豊国は歌舞伎役者の姿を描いた絵で知られ、国貞もその門に学んだ。太田記念美術館は国貞と国芳を同じ豊国門下に位置付ける。ただし、誰がいつどの技法を教えたかという細かな授業記録が公開資料にあるわけではない。師弟関係を認めることと、若い国貞が毎日どんな場面を見たかを想像で書くことは違う。錦絵を作るときには、図を考える絵師のほかに版元、彫師、摺師が関わった。師の仕事場を知ることは、この分業の世界に入ることでもあった。 [4] [6]

初期の確かな目印の一つが、クリーブランド美術館の1814年の役者絵である。七代目市川團十郎が菅丞相となった姿を描き、目、紅隈、開いた髪、口元にかかる梅の枝が視線を引く。物語の人物「菅丞相」と、その役を演じる「七代目團十郎」を分けて読む必要がある。画像から二人の親交の深さまで断定はできないが、国貞が早くから特定の役者と役に応じた絵を作っていたことは分かる。 [7] [8]

團十郎の見得を細部から読む

番号を押すと、高解像度の館蔵画像から作った細部を拡大できます。全図の位置を確かめてから、下の説明と比べてください。

歌川国貞、七代目市川團十郎の菅丞相、三つの注釈位置123

注釈画像の細部

1

隈取と見得

白と赤の隈取、寄せた目、口元の力みが荒事の見得を作る。役者の普段の表情ではなく、菅丞相が雷神へ変わる舞台の一瞬である。

隈取と見得

クリーブランド美術館 作品記録 1985.333。編集部による切り抜き・縮小。

2

口元を横切る梅枝

花のついた枝が口元を横切り、周囲の髪にも小さな花が見える。枝を顔から切り離さず全図へ戻して見たい。

口元を横切る梅枝

クリーブランド美術館 作品記録 1985.333。編集部による切り抜き・縮小。

3

右上の文字枠

文字枠は画面を舞台と連作へつなぐ手掛かり。細部の翻刻を推測せず、所蔵館が確かめた題名とともに読む。

右上の文字枠

クリーブランド美術館 作品記録 1985.333。編集部による切り抜き・縮小。

フィッツウィリアム美術館の展示では、1820〜30年代の役者絵に国貞が師とは異なる画風を確立していく様子が示される。同館は、團十郎をおよそ半世紀にわたって多数描いたと説明し、私的に配られた摺物の一部に役者との面識がうかがえるとする。摺物は通常の店頭販売の一枚とは配布の方法も紙や詩の使い方も違う。一方で、すべての團十郎像を直接の友情の証拠と読むこともできない。役者の芸を愛する購買者、役者自身、版元という複数の需要が重なっていた。 [6] [9]

1819年に出された団扇絵の一組には、團十郎と女方の五代目瀬川菊之丞が登場する。団扇の形に合わせた画面は、縦長の大判錦絵を単に切り抜いたものではない。劇場での当たり役を、手に持つ道具にも移したのである。1814年の役者絵とこの1819年の団扇絵を並べれば、20年代に人気を得る以前から、国貞の役者を描く仕事に複数の形式があったことが見える。ただし、両年の間に制作された全作品を復元できるという意味ではない。 [10]

役者の似顔を読む仕事

役者絵では、上演中の人物と俳優本人を取り違えやすい。芝居の題、役名、役者名、役者の屋号や紋、興行の時期は、それぞれ異なる情報を伝える。團十郎も襲名によって名を変え、のちに五代目海老蔵として活動した。一枚の顔が似ているかどうかだけで同定せず、画中の文字と舞台史を突き合わせる必要がある。これは現代の所蔵品解説が細かく作者・役者・役名を分けて記す理由でもある。 [11] [9]

豊国は1817年に役者の似顔を描く手引を出している。フィッツウィリアム美術館が引くその説明では、目や眉の描き方を役者の演技から切り離せない。国貞も、役者の個人性を伝える「似顔」と、芝居の一瞬に必要な隈取や見得を併せて扱った。強い表情をただ性格描写と呼べば、演技に伴う誇張を見落とす。資料に劇場と役名があるときは、その情報を見て初めて顔の線の意味が分かる。 [12] [7]

版木の再利用にも注意が要る。英国の同館は、1831年の芝居のために作られた国貞の役者絵の版木を、版元が1835年の上演に合わせて改刻した事例を紹介している。新しい役者名と顔が古い構図に組み込まれ、摺りの細部も変わった。これは珍しい例だが、「似た構図だから同じ上演を描いた」という早合点を戒める。国貞の生涯を錦絵から読むには、デザインの年だけでなく、実際に手元に残った摺りの状態と文字を見ることが欠かせない。 [13]

美人画と本の仕事

国貞の仕事を役者絵の年表だけにすると、美人画や絵本の役割が見えなくなる。クリーブランド美術館の《灯を消す女》は1820年頃の室内の行為、《湯屋を出る女》は1820年代半ば頃の異なる場面を伝える。どちらも実在する特定の女性との出会いを記録したとまでは言えない。衣装や身ぶりを売り物にした図であっても、画面の人物の職業や住所を題名以上に決めつけない方が、当時の版元が読者へ差し出した場面を正しく見られる。 [1] [14] [15]

《Woman Putting Out a Light》
《Woman Putting Out a Light》 1820年頃。クリーブランド美術館。作品記録 1930.201。
《Woman Leaving a Bath House》
《Woman Leaving a Bath House》 1820年代半ば頃。クリーブランド美術館。作品記録 1940.711。

太田記念美術館の2016年の展覧会は、国貞の図に見られる季節の楽しみ、食事、楽器、猫、髪や化粧に注目した。《今様三十二相 すゞしさう》の行水、《江戸名所百人美女 赤さか氷川》の箏、《当世俳優贔屓競 猫抱く女》の猫など、題と行為を挙げて紹介している。作品の多さを誇るだけでなく、どの生活の場面が商品になると思われたかを具体的に見せる資料である。ただし、衣装の意匠を錦絵に描いたからといって、江戸のすべての女性がそれを実際に着たとは言えない。流行を望み、眺め、演じる印刷物として読む必要がある。 [26]

同展の《江戸名所百人美女 よし町》の解説は、芸者の黒留袖、襟や裾から見える赤い襦袢、紫の帯、口にくわえた懐紙という見える細部を述べる。色と身ぶりは見る人に「粋」を伝えるよう組み合わされている。伝記にとって大切なのは、国貞が個人の女性の身元を記録したかどうかではなく、着こなしの差を読める都市の観客へ向けて図を作ったことだ。別の所蔵品にこの人物の名前が確定していない限り、題の場所だけをもとに実在の芸者を特定しない。 [26]

千葉市美術館には国貞の肉筆《花魁図》がある。多色摺りの大量の錦絵だけが彼の仕事ではなかったことを示す、物として別種の資料である。絹本などの材質、印章、所蔵番号を伴う肉筆画は、版木から多数の摺りを作る錦絵と同じように扱えない。ただし、この一点があるからといって国貞が日常的に何点の肉筆画を制作したかまで分かるわけでもない。個々の作品を、生涯の幅を知る根拠として使う。 [16]

千葉の所蔵記録はこの軸を、天保期の絹本着色、一幅、縦108.0×横31.8cmと記す。画中の狂歌は吉原の大文字屋の主人・加保茶元成が詠み、筆は一元という花魁によると同館は読む。描かれた花魁も一元と思われる一方、その顔立ちは当時の国貞の標準的な美人画様式だと留保する。つまり、詩の作者、文字を書いた人、絵を描いた人、絵のモデルらしい人は、一幅の中で別の役割を担う。「一元の肖像」と強く言い切るより、このような共同の痕跡と同定の幅を示した方が、肉筆の仕事の実像に近い。 [16]

クリーブランドの1830年代初め頃の《手鏡を持つ女》は、女性の身ぶりを近くで見せながら、揃物の名には《浮世六玉川》という文学的な地名を掲げる。画面の鏡が見えることと、歌枕に結びつく川を実際に描いたことは同じではない。国貞の生涯のこの時期には、暮らしのしぐさだけでなく、それを読む人の知識を誘う題も商品になったと考えられる。誰か特定の女性がモデルになったという記録は作品情報にない。画題を手掛かりに観客の楽しみ方を考え、作者の私的な出会いを創作しない。 [29]

《Woman with a Hand Mirror》
《Woman with a Hand Mirror》 1830年代初め頃。クリーブランド美術館。作品記録 1916.1131。

1830年代初めのクリーブランド作品《伊勢沖の鮑取り》は横長の風景で、版元として山口屋藤兵衛を記録する。海と働く人々が主役になり、役者絵の近接した顔とは画面の作りが大きく違う。「伊勢」と記された作品は伊勢に取材した景を読者に思わせるが、国貞がその海へ旅したという旅行記の代わりにはならない。制作の場に版元の企画があったことを説明する方が、伝記上の根拠として確かである。 [17] [1]

《Abalone Divers off the Coast of Ise》
《Abalone Divers off the Coast of Ise》 1830年代初め。クリーブランド美術館。作品記録 1916.944。

太田記念美術館の回顧展は、国貞が四十代を過ぎて名声を得た後、英派にも入門したと述べる。若い時の豊国門下だけで学習が完結したという物語を見直せる重要な指摘である。ただし、展覧会ページには入門年や教えを受けた師の個人名、ある一枚に表れた効果までは示されていない。国貞が成熟後も別の絵の系統を学んだという館の記述として紹介し、後の作品のどこが英派によって変わったかは個別研究を待つ。長い画業を一つの固定した「国貞様式」で語らない理由の一つになる。 [1]

柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』は1829年に刊行を始め、国貞が挿絵を担当した。国立国会図書館の調査は、1842年に出た第三十八編までと、刊行されなかった第三十九・四十編の稿本を区別している。種彦は作者、国貞は挿絵を描いた絵師である。二人の協働は大きな成果だが、未刊の稿本を「刊行された続編」と紹介したり、後から作られた源氏絵を合巻の頁とみなしたりしてはいけない。 [18] [19]

クリーブランドの《村荻》は、この人気作品をもとにした独立の錦絵揃物に属する。本から外された頁ではない。太田記念美術館の源氏絵展も、古典『源氏物語』そのものの図、古典を当世風に読み替えた図、種彦の物語から生まれた図を分けている。こうした分類を一つずつ守ると、国貞が一つの物語を異なる商品へ広げた様子が見えてくる。これは絵師の幅を示す重要な業績だが、各刊本や各揃物の版と画像権利は別頁で調べたい。 [20] [19]

《Muraogi》
《Muraogi》 1830年代。クリーブランド美術館。作品記録 1985.334。

天保改革と豊国襲名

1842年の天保改革は、役者や遊女を題材とする錦絵の出版に影響した。太田記念美術館は、幕末の役者絵が変装した主題や別の名乗り方で続いたことを示している。フィッツウィリアム美術館は同年の七代目團十郎の江戸追放と、版元を対象にした統制を詳しく説明する。だから「役者絵がすべて消えた」とは書けないし、「何も変わらなかった」とも言えない。国貞の仕事は規制の下で、読者が舞台を思い出せる言葉と図像を探した。 [4] [6]

ほぼ同じ時期に、作者名にも大きな変化が生じる。国貞は師匠豊国の名を引き継ぎ、1844〜45年には「国貞改二代豊国」という移行期の署名を用いた。先に豊国を名乗った豊重を数える現在の資料では、国貞が三代となる。国立国会図書館の手稿展示も「自らは二世豊国を名乗るが実際には三代目」と明記している。印刷された「二代」を誤植と決めつけず、作者自身の名乗りと後世の整理を分けて記すべきである。 [3] [21]

改革と襲名が同じ十年間に起きたからといって、一方が他方の直接の原因だとする資料はここにはない。版元は取り締まりに応じて題の付け方を変え、絵師は自分の名と印を変えたが、各作品の制作日や改印を調べずに一つの劇的転機へまとめることは危うい。たとえばクリーブランドの《初鰹》は1844〜48年という幅で所蔵館が年代を記す。その図を「襲名当日の記念作」と呼べない。幅を残した作例を間に置き、個別の署名が見える図が揃ったときにこそ名の移行を詳しく図解できる。 [27] [3]

《First Bonito of the Year》
《First Bonito of the Year》 1844–48年。クリーブランド美術館。作品記録 1940.1013。

署名だけで年を確定することにも限界がある。立命館大学の倉橋正恵は、国貞の落款を整理する際、役者の上演年や資料の種類を合わせて検討する必要を示した。画号には五渡亭、香蝶楼、一陽斎などがあり、名前の使い方も一度に切り替わる単純な表ではない。揃物の別の図、改刻や後摺りで事情が変わる場合もある。国貞と豊国の二つの名は重要な時期の目印だが、作品の実物に書かれた情報を他の証拠と照らすことが先である。 [22] [3]

倉橋の研究では、似た署名を並べるだけでなく、役者絵を上演資料と照らし、どの劇場のどの日付に結びつくかを調べる。これは閲覧者にも役に立つ方法である。題箋が読める一枚なら、画名、役者名、役名、版元印を別々に写し、所蔵館の年代と比較してみる。制作した元の図と後に改刻された摺りを見分けられる場合もある。反対に、写っていない印や読めない文字を想像で補えば、年譜の整ったように見える誤りが生まれる。伝記の年表は、印刷物に残る手掛かりの精度に合わせて書かれるべきだ。 [22] [13]

晩年の工房と未刊の仕事

太田記念美術館は、晩年の国貞と豪商八代目紀伊国屋長三郎、版元恵比須屋庄七との関係を、近年明らかになってきた研究として紹介する。特定の大首絵を支えた人々をたどれることは魅力的だが、版元と注文主と絵師を同じ役割として書いてはならない。彫師や摺師がさらに加わることも、最終的な紙の姿に関わる。歴史資料が個別の発注額を示していない作品に、豪商がすべて費用を払ったと広げて考えない。 [4]

国立国会図書館の電子展示は、晩年の作品には弟子との分業によるものが多いとされる、と留保をつける。同館の《姿見早稽古》は二十八人の歌舞伎役者を半身像で描いた稿本である。刊本の存在は確認されていない。作者名は記されず、序文の「亀戸の画叟おやだま」という表現などから三代豊国の作と推定し、1854年八月の舞台に関する絵が多いことから制作時期も推測する。このような出所の説明を落として「国貞が1854年に刊行した画集」と書けば、帰属、年代、刊行の三点を同時に誤る。 [21]

同じく太田記念美術館が紹介する晩年の《江戸美人尽》は、四十二点の下絵が知られるが錦絵としては刊行されなかった仕事である。制作された図案と、店で売られた摺りの枚数は違う。今見ることのできるものだけで晩年の売れ筋を数えることも、未刊の下絵を生前の読者が手にした図とすることも避けたい。国貞の工房は、広く流通する作品と、出版に至らない構想の両方を残した。 [1]

クリーブランドの《梅の木のそばに立つ女》は1850年頃とされる、別の美人画である。梅の花と女性という題は季節の装いを読み取る助けになるが、《江戸美人尽》の未刊下絵そのものではない。生前に摺られた一枚と出版されなかった図案を同じ頁に置くなら、その差を図注で明示したい。幅を持つ館の年代をそのまま残し、国貞の「最後の一枚」といった根拠のない順番を付けない。 [14]

《Woman Standing Beside a Plum Tree》
《Woman Standing Beside a Plum Tree》 1850年頃。クリーブランド美術館。作品記録 1916.1172。

この頃には広重との仕事も重なる。太田記念美術館は、国貞の美人を主にした東海道、役者を主にした東海道、そして広重が背景の風景を、国貞が前景の人物を担当した《双筆五十三次》を分けて説明する。「国貞と広重の東海道」という短い言い方だけでは、どの揃物のどの図か分からない。クリーブランドの1854年の三枚続《雪の庭》も両者に帰属するが、所蔵館はそれを《双筆五十三次》の一駅とはしていない。共作者を正しく記すことと、作品が属さないシリーズに組み込まないことを同時に守る。 [25] [28]

《The Snowy Garden》
《The Snowy Garden》 1854年。クリーブランド美術館。作品記録 1940.989。

死絵が伝える日付と伝えないこと

国立歴史民俗博物館は、国貞の死絵を二つ所蔵する。資料番号F-320-576には初代国貞の後継者である二代国貞の作と記され、F-320-529には豊原国周の名のほか彫師松嶋彫政、版元恵比須屋庄七が記録されている。絵師を追悼する錦絵は役者の死絵に比べて珍しいと同館は説明する。別々の制作関係者が師の死を図にしたことは、国貞の周囲に続く仕事の網を示している。 [2] [23]

両資料が一致して記す没日は元治元年十二月十五日である。元治元年は西暦表記では1864年に当たるが、旧暦の十二月十五日は現在の暦では1865年一月に入る。美術館によって「1786–1864」と「1786–1865」が見られる理由はここにある。メトロポリタン美術館の出版物は一月十五日と換算しているが、他の資料には別の日の換算もある。この頁では旧暦の日付を一次的な表記として示し、西暦は一月までにとどめる。 [2] [23] [24]

一方の死絵は享年八十、他方は七十九と記す。年齢の数え方に関係する可能性はあるが、資料の違いを確かめずに一方だけを「正しい」とはしない。戒名や亀戸の光明寺との関係も所蔵館の翻刻に記録される。死絵に添えられた辞世や追悼の句は、後世の読み手に訴えるための印刷された言葉である。写真のように本人の最終の表情を写したものでも、残された全員の心中を語るものでもない。 [2] [23]

死絵の所蔵品ページにはCC BY-SA 4.0が表示されている。画像を掲載できる可能性はあるが、具体的な画像ファイル、所蔵表示、クレジット、切り抜き時の継承条件を記録してから本番素材にする。本文では先に翻刻の文字を資料として引用し、条件未確認の画像を直接取り込まない。 [2] [23]

作品と名前を残した人々

国貞の歩みを一枚の「最高傑作」で代用することはできない。師から名を受けて役者絵を描き始め、舞台を見る人のための似顔を作り、合巻の挿絵や美人画を手掛け、豊国の名をめぐる継承に加わり、弟子や版元と晩年まで制作した。そうした年譜を支えるものは一様ではない。1814年の錦絵、1829年に始まる合巻、1844〜45年の落款、未刊の稿本、死絵の翻刻は、それぞれ違う種類の記録である。資料の差を見えるままにした方が、長い生涯は具体的になる。 [7] [18] [3] [21]

国貞の案内ページでは役者、美人、故事、伊勢の風景、源氏絵の実際の図を見比べられる。歌川広重のページは東海道を別の絵師の側から見る入口になる。『偐紫田舎源氏』と東海道の各揃物は、版と作者、所蔵画像を整理してから独立した頁にする。国貞の伝記は、そうした作品へ進む際の「この名は誰の、いつの、どの仕事か」を問い直す地図である。 [19] [25]

よくある質問

1786年生まれです。死絵に記された旧暦の没日は元治元年十二月十五日で、西暦では1865年一月に入ります。1864年表記と1865年表記は暦の取り方の違いを反映します。 [2] [24]

初代歌川豊国です。国貞は豊国門下で画名を与えられましたが、入門した正確な日付を示す資料はここで確認されていません。 [3] [4]

国貞は襲名時に自ら二代豊国と名乗りました。現在はその前に豊国を名乗った豊重を二代に数えるため、国貞を三代豊国と呼ぶことが多いからです。 [3] [21]

国立国会図書館は刊本を確認しておらず、作者も無署名の稿本から推定しています。1854年頃の役者絵を含む、出版に至ったとは断定できない資料です。 [21]

国立国会図書館は晩年作に弟子との分業が多いとされると説明します。ただし、その一般的な指摘だけで個々の錦絵を特定の弟子の作と決めることはできません。 [21]

読者との対話

署名、上演年、未刊の稿本、死絵がそれぞれ何を確かめられるか考えましょう。

鑑賞の手がかり

師と学び

豊国門下と、四十代以後の英派への入門を、どの資料が記していますか。

名前と上演

「二代豊国」の落款は、現代の三代豊国という呼び名とどうつながりますか。

晩年の資料

《姿見早稽古》と二種の死絵は、何を証明し、何をまだ示しませんか。

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参考資料

  1. 太田記念美術館、「没後150年記念 歌川国貞」(2014年)。
  2. 国立歴史民俗博物館、《三代豊国死絵》、資料番号F-320-576。
  3. フィッツウィリアム美術館、「Kunisada's Names」。
  4. 太田記念美術館、「国貞・国芳・広重とその時代」(2008年)。
  5. 小田原市デジタルアーカイブ、「歌川国貞=三代豊国」。
  6. フィッツウィリアム美術館、「Introducing Kunisada and Kabuki」。
  7. クリーブランド美術館、《Ichikawa Danjuro VII as Kan Shojo in the Mt. Tenpai Scene》、所蔵番号1985.333。
  8. フィッツウィリアム美術館、「How to Read an Actor Print」。
  9. フィッツウィリアム美術館、「Ichikawa Danjūrō VII」。
  10. フィッツウィリアム美術館、「Fan Prints: Examples」。
  11. フィッツウィリアム美術館、「Actors' Names and Crests」。
  12. フィッツウィリアム美術館、「True Likenesses (nigao)」。
  13. フィッツウィリアム美術館、「The Reuse of Printing Blocks」。
  14. クリーブランド美術館、《Woman Putting Out a Light》、所蔵番号1930.201。
  15. クリーブランド美術館、《Woman Leaving a Bath House》、所蔵番号1940.711。
  16. 千葉市美術館、《花魁図》、所蔵番号2901010。画像は研究資料扱い。
  17. クリーブランド美術館、《Abalone Divers off the Coast of Ise》、所蔵番号1916.944。
  18. 国立国会図書館レファレンス協同データベース、「『偐紫田舎源氏』について知りたい」(2013年)。
  19. 太田記念美術館、「源氏物語誕生1000年記念 浮世絵の中の源氏絵」(2008年)。
  20. クリーブランド美術館、《Muraogi, from the series The False Murasaki's Rustic Genji》、所蔵番号1985.334。
  21. 国立国会図書館電子展示会、「あの人の直筆」第3部第1章、《姿見早稽古》の項、資料番号170・請求記号本別7-570。
  22. 倉橋正恵、立命館大学、「A List of Kunisada's Signatures: Its Usefulness and Problems」。
  23. 国立歴史民俗博物館、《三代目歌川豊国死絵(国貞)》、資料番号F-320-529。
  24. メトロポリタン美術館、『The Tale of Genji: A Japanese Classic Illuminated』冒頭の年代表記説明(2019年)。没日の西暦換算については異説にも注意。
  25. 太田記念美術館、「東海道五十三次の世界――広重と国貞」(2012年)。
  26. 太田記念美術館、「歌川国貞~和の暮らし、和の着こなし。」(2016年)。
  27. クリーブランド美術館、《First Bonito of the Year》、所蔵番号1940.1013。
  28. クリーブランド美術館、《The Snowy Garden》、所蔵番号1940.989。広重と国貞の共作として記録。
  29. クリーブランド美術館、《Woman with a Hand Mirror》、所蔵番号1916.1131。