一つの図柄、多くの摺り。山の赤み、朝の光、現存する紙の違いから《凱風快晴》を見ます。

《凱風快晴》を一枚の図柄と複数の摺りから読む
富士が紙面のほとんどを占める。赤みのある大きな斜面の下に、暗い樹木が小さく並ぶ。山頂には白い雪、空には横に伸びる雲。旅人も船も家もない。この簡潔さが、葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》を連作の中でも目立つ一図にしている。「赤富士」は通称で、題名そのものは風と晴れた空を指す。すみだ北斎美術館も正式題と通称を併記している。すみだ北斎美術館 [1]
一枚の見慣れた画像を、変わらない一枚の絵画と思わないことが大切だ。これは木版で何枚も摺るための図柄である。現存する摺りは、色の載り方、紙、保存状態、撮影の違いで同じに見えない。メトロポリタン美術館のJP9とJP2960は、同じ図柄に属する別の現物である。クリーブランド美術館1930.189も別の現物として記録されている。このページでは図柄、物体としての摺り、今見るデジタル画像を分けて扱う。メトロポリタン美術館 JP9 [2] メトロポリタン美術館 JP2960 [2] クリーブランド美術館 [3]
要点
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 《冨嶽三十六景 凱風快晴》。通称「赤富士」 |
| 作者 | 葛飾北斎(一七六〇〜一八四九) |
| 制作の目安 | 一八三〇〜三二年頃の図柄。現存する各摺りの印刷日は別問題 |
| 形態 | 多色摺り木版画、紙 |
| 版元 | 西村屋与八、永寿堂。大英博物館の目録による |
| 連作 | 『冨嶽三十六景』。最初の三十六図に追加十図を含む |
| 描かれたもの | 雪の残る富士、山麓の樹林、雲のある空。人物と建物はない |
《凱風快晴》という題名
「凱風」は南から吹く穏やかな風を指す語として読まれ、「快晴」は澄んだ空を示す。英語の美術館目録で South Wind, Clear Sky や Fine Wind, Clear Morning などと訳されるのは、同じ《凱風快晴》を伝えるためである。「赤富士」は山の色から付いた呼び名で、別の作品を示すわけではない。大英博物館とメトロポリタン美術館がそれぞれの英語題で登録する現物も、北斎のこの図柄に属する。大英博物館 [4] メトロポリタン美術館 [2]
では、図は何時何分の、どこから見た富士か。すみだ北斎美術館は、夏から秋へ向かう早朝に朝日を受けて赤くなる現象に結びつけ、一説として河口湖近辺から見た山の可能性に言及する。メトロポリタン美術館も初秋の夜明けという説明を載せる。これらは作品を読むための研究機関の説明であり、北斎が特定の日にそこへ立ったという旅行記録ではない。山の前に位置を確定する橋や建物がなく、画面そのものから撮影地点を一点に絞れない。すみだ北斎美術館 [1] メトロポリタン美術館 [2]
題名が空気に目を向けさせる点も重要だ。赤い山ばかり注視すると、青い空に走る白い雲の列が見えなくなる。雲はほぼ水平に伸び、山の大きな斜線を横切る。晴れた空は空白ではない。雲の細かな動きがあるから、動かない山の赤みが一時の光景のようにも感じられる。
注釈画像:赤富士の五つの細部
番号を押して下の説明へ進み、細部画像を押して拡大してください。
掲載画像が写す現物の摺りは未特定。細部は原画像からの切り抜き。
山、木、雪、雲を読む
斜面は画面の左下から上がり、中央より右の頂を越えて、右の枠の外へ続く。山は描かれた主題であると同時に、画面を支える大きな形だ。中景はほとんどなく、山麓の暗緑色の樹木帯から色のある斜面へ一気に移る。メトロポリタン美術館はその木々を小さな緑の三角形として説明する。人を描かずとも、細かな木々を尺度にして山の巨大さが分かる。メトロポリタン美術館 [2]
赤い面は均一なベタ塗りではない。上部は暗い色を増し、下の方で緑へ移る。クリーブランド美術館は、自館の一枚で桜材の版木の木目が赤い色とともに紙へ写っていると記す。小さな画面では一色に見える部分にも、印刷の痕跡があるという具体的な観察だ。ただし、その木目がどの所蔵品にも同じ強さで見えるとまでは言えない。クリーブランド美術館 [3]
山頂では白い雪の筋が暗い頂部へ入り、広い赤い斜面と鋭い対照をつくる。空の雲は短い線を繰り返すように並ぶ。樹木、雪、雲、題字枠、署名は細部として小さいが、画面の大きな色の領域を単調にしない。全体像が遠目でも伝わる一方、近づいて見る理由が残されている。上の注釈画像は、所有者提供の高解像度画像から作った細部を拡大し、この二つの見方を往復できるようにしている。所有者提供の画像がどの現物の摺りを写したかは分かっていない。
《神奈川沖浪裏》と比べると、人間の尺度の使い方も違う。波の図では小舟と漕ぎ手が、大きな水と小さな富士の間にいる。《甲州石班澤》では働く人と釣り糸が山の形に響く。《凱風快晴》ではその人がいない。人物を外すことにより、山の形と空の状態に視線を集中させたと言える。ただし、この違いから北斎が一図を他の図より好んだと推測する資料はない。すみだ北斎美術館・連作資料 [7]
同じ図柄でも摺りは違う

木版の錦絵は、北斎一人が紙の一枚一枚を塗った絵画ではない。下絵から版木を彫り、輪郭や各色を摺り重ね、版元が制作と販売を組織する。色材、色の置き方、版木の状態で新しい紙の印象は変わりうる。保存中の光や扱いもその後に色を変える。しかし、オンラインで色が違って見える原因をすべて摺りの違いにするのも早計だ。撮影、色補正、画面表示、切り抜きも比較に影響する。まずは現物の所蔵番号を確かめる。
大英博物館の所蔵品1906,1220,0.525の解説は、色のぼかしと青の濃淡、異なる時期の摺りを詳しく論じる。メトロポリタン美術館のJP9とJP2960は、それぞれ異なる寄贈・購入履歴と寸法をもつ現物だ。JP9の記録は二四・四×三五・六センチ、JP2960は二五・四×三七・八センチとする。寸法が違うだけでは、元の紙がどのように裁たれたかまで分からない。記録を区別してから、見える色と状態を比べる必要がある。大英博物館 [4] メトロポリタン美術館 JP9 [2] メトロポリタン美術館 JP2960 [2]
「青富士」と呼ばれる藍摺版も存在する。すみだ北斎美術館の展示と講座は、赤い版と藍摺版を並べて扱う。したがって青い画像を、ただちに現代の誤った色替えと決められない。ただし、展示に二種があることだけで、すべての現存品の摺られた順序は決まらない。青と赤のどちらがいつ、どの程度作られたかは、個々の紙と版の状態の研究に依存する。すみだ北斎美術館・展示 [9] すみだ北斎美術館・講座 [9]
比較する四つの現物
| 所蔵館と番号 | この頁での役割 | 比較上の注意 |
|---|---|---|
| メトロポリタン美術館 JP9 | ここに画像を掲載する、番号の分かる赤富士の一枚 | 冒頭の所有者提供画像と同一の摺りと見なさない |
| メトロポリタン美術館 JP2960 | 題名、技法、寸法と空・山・樹木の解説を照合 | JP9とは別の一枚 |
| クリーブランド美術館 1930.189 | 赤い斜面に木目が見えるという作品記録 | この現物の観察を全摺りに広げない |
| 大英博物館 1906,1220,0.525 | ぼかしや青の摺りの研究を参照 | この館の画像は権利確認なしに転載しない |
『冨嶽三十六景』のなかの赤富士

連作の題は「三十六景」だが、追加された十図を含めると四十六図になる。すみだ北斎美術館は《神奈川沖浪裏》《凱風快晴》《山下白雨》を代表的な三図として挙げる。《山下白雨》では山頂に光、山麓に暗い天候があり、《凱風快晴》では赤い斜面と大きな空が画面を支配する。《神奈川沖浪裏》では山は小さく、手前の海が圧倒的に大きい。同じ対象を三つの別の構図の問題として考えると、一枚ずつを見る意味が増す。すみだ北斎美術館・連作資料 [7]
版元の西村屋与八は一図だけを特別な孤立した絵として世に出したわけではない。シリーズ名を持つ多色摺りの大判作品を企画し、購入者が別の図と並べて見ることを可能にした。版画が売れ、再び摺られる媒体であることも、色の異なる現存品を考える背景となる。ただし、特定の紙が最初の販売に属するかどうかは、この一般的な制作の説明からは決められない。大英博物館 [4]
朝の光という読みを確かめる
大英博物館のティモシー・クラークによる解説は、上の裸地が先に光を受け、下の森がまだ暗いと読む。明るさの境界が単純な水平線ではなく、山肌に沿って曲がるところに注意している。これは印刷された形と色に基づく解釈であり、北斎が日時と観測位置を書き残した証言ではない。画像を見る人も、赤から緑へ移る線が左右で同じ高さか、頂上の暗さがどう残るかを確かめられる。大英博物館 [4]
雲も近くで見ると、一様な青の上に白い線を載せたような単純なものではない。紙の白さと青の摺りの間に、途切れたり揃ったりする形ができる。大英博物館は自館の早い摺りで意図的に揃わない青の摺りに言及する。ここにある拡大画像は差に気づく入口となるが、現物が未特定の所有者提供画像から色材の化学組成を判定することはできない。大英博物館 [4]
保存の知識も色を読む助けになる。大英博物館の保存研究は、北斎の版画における退色と展示時の光の管理を説明している。メトロポリタン美術館の科学研究にも、日本の版画の色材に関わる研究がある。写真で色が薄く見えたとき、「版元がそう摺った」「後世に色が落ちた」「撮影のせい」のどれかを、画像だけで即断しない姿勢が必要だ。現物の状態と調査記録を照らし合わせる。大英博物館・保存研究 [5] メトロポリタン美術館・科学研究 [6]
後の写真で富士を見直す
アムステルダム国立美術館の《田子の浦からの富士》は、小川一真の名を伴う写真に基づくコロタイプで、一八八三〜一八九三年頃の資料である。北斎の図柄から半世紀以上後にできた。川筋、水上の小舟、木々が山の大きさを測る手がかりとなる。《凱風快晴》が人物と建物を取り払って山と空へ集中するのに対し、この写真には暮らしの尺度が入る。アムステルダム国立美術館 [8]

美術館は田子の浦という場所を記録するが、《凱風快晴》には同じ位置を示す確かな標識がない。この写真を北斎が見たとも、同じ場所から見て描いたとも言えない。水辺から富士を見る後世の一資料として、山の前景に人の尺度がある場合とない場合を比べる。撮影年、写真を本に印刷した技法、所蔵番号を記すのは、単なる「古い富士の写真」より正確に見るためである。
細部を見る順番
まず画像全体で斜面の線をたどる。左下から山頂へ上がり、赤と緑の境目がどこを通るかを見る。次に雲を横へ読み、雪の白い筋と頂上の暗い部分を比べる。樹林帯へ拡大すると、小さな形の繰り返しが遠目には一つの暗い帯になることが分かる。五つの注釈細部は、作品を分解して終わるためでなく、拡大した後でまた全体へ戻るために置いた。
題字枠と署名も画面の一部である。枠には連作名と図の名が入り、署名には北斎の「為一」という名が見える。複製画像がこの部分を切り落とすと、無名の自然風景のように見えてしまう。シリーズとして出版された一図だと分かる文字が、空の中でどの位置を取るかを確かめたい。大英博物館の作品解説は署名を記録している。大英博物館 [4]
最後に現物の比較へ進む。JP9、JP2960、クリーブランドの一枚について、同じ箇所の色の境界、空の青、山頂の雪、紙の縁をそれぞれ見る。ウェブ上の色の好みで「正しい赤」を選ぶより、同じ図柄が異なる紙の上でどう見えるかを、番号の分かる資料で問う方が実りがある。メトロポリタン美術館 JP9 [2] メトロポリタン美術館 JP2960 [2] クリーブランド美術館 [3]
北斎の富士をさらに読む
この一枚を連作全体と比べるには、四十六図を扱う《冨嶽三十六景》の記事へ進める。海と山の縮尺を詳しく見るなら《神奈川沖浪裏》がよい。木版画から絵本へ変わると視線がどう動くかは『富嶽百景』で比べられる。制作の幅を年月に沿って知りたい読者には北斎の生涯を用意している。
よくある質問
木版で摺られた錦絵の図柄である。メトロポリタン美術館のJP2960は「紙にインクと色彩の木版画」と登録される。同じ図柄の複数の現物が残る。メトロポリタン美術館 [2]
すみだ北斎美術館とメトロポリタン美術館は、夏から秋にかけての早朝の光に結びつける。同時に、赤は版木で紙に摺られた意図的な色でもある。特定の朝の色を写真のように再現したと断定する資料はない。すみだ北斎美術館 [1] メトロポリタン美術館 [2]
位置は確定できない。すみだ北斎美術館は河口湖近辺という一説に触れるが、画面には位置を特定する建物などがない。すみだ北斎美術館 [1]
South Wind, Clear Sky と Fine Wind, Clear Morning は《凱風快晴》の英語の表し方で、「赤富士」は通称。同じ図柄でも、美術館の画像は別の摺りを写している場合がある。メトロポリタン美術館 [2] 大英博物館 [4]
ある。すみだ北斎美術館は藍摺版の《凱風快晴》を紹介している。個々の青い現物については、その所蔵番号と来歴を別に確かめたい。すみだ北斎美術館 [9]
読者との対話
《凱風快晴》のどの部分から、朝の光や山の大きさを感じますか。
鑑賞の手がかり
山の赤と空の青は、どちらを先に見せていますか。
二つの所蔵品を見比べると、どの色の境界が違って見えますか。
木、雪、雲のうち、山の大きさを最も強めるのはどれですか。
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参考資料
- すみだ北斎美術館《冨嶽三十六景 凱風快晴》。日本語題、通称、朝の光、眺望位置に関する一説。
- メトロポリタン美術館 JP2960・JP9・オープンアクセス方針。別々の現物と画像利用条件。
- クリーブランド美術館 1930.189・オープンアクセス。山の木目を含む現物記録。
- 大英博物館 1906,1220,0.525。印刷の濃淡、署名、図柄の解説。
- 大英博物館・北斎版画の保存研究。退色と展示光の研究。
- メトロポリタン美術館・科学研究要旨。日本版画の色材に関わる研究。
- すみだ北斎美術館・二〇一七年の富士展資料。連作と代表三図。
- アムステルダム国立美術館《田子の浦からの富士》RP-F-2001-7-589-2。明治期の写真に基づくコロタイプ。
- すみだ北斎美術館・赤と藍摺版の展示・講座。版の多様性。








