幕末から明治へ。武者、蒸気車、新聞、女性、月を描いた芳年の仕事を、現存する錦絵からたどります。

芳年を見るための三つの入口
月岡芳年(一八三九~一八九二)は、江戸で生まれ、東京で没した浮世絵師である。この二つの地名の間に、幕府の終焉と明治政府の成立、鉄道・新聞の普及、美術をめぐる制度の変化がある。芳年は、そうした変化を錦絵の外から眺めた人物ではない。歴史上の武者、同時代の出来事、女性の表情、月にまつわる物語などを、版元や彫師、摺師と協働して世に送り出した。何を描いたかだけでなく、誰に、いつ、どのような一枚として届けたかを考えると、作品の幅が見えてくる。 [1] [2]
第一の入口は時間である。物語の舞台が過去であっても、絵が刊行されたのは幕末・明治の場合がある。《風俗三十二相》に「天保年間」や「弘化年間」の人物が登場しても、連作そのものは明治二十~二十一年に刊行された。第二は形式で、一枚絵と三枚続では、人物と周囲の出来事に与えられる紙面が違う。第三は現存する摺りである。同じ図柄にも別の摺りや後の刊行があり、所蔵館の番号や日付を離れて「芳年の作品」とだけ呼ぶと、大切な差が消える。 [3] [4]
ひと目でわかる芳年
- 時代幕末から明治(一八三九~一八九二)
- 師歌川国芳。一八五〇年頃に入門
- 主な形式一枚物、二枚続・三枚続、挿絵、肉筆画
- 代表的な連作《月百姿》《風俗三十二相》《新形三十六怪撰》
目次
しばしば芳年は「最後の浮世絵師」と呼ばれる。太田記念美術館も、その呼称を紹介しながら、回顧展では残酷絵だけでなく歴史画、妖怪画、美人画など二百点以上を通して活動を示した。呼称をそのまま「芳年の死後、浮世絵は制作されなくなった」という意味に取るべきではない。弟子は働き続け、晩年のシリーズには没後に出た図もある。芳年の面白さは、むしろ古い題材と新しい画題を同じ版画文化の中で展開した点にある。 [5] [6]
国芳門下から独立した仕事へ
国立国会図書館は、芳年が嘉永三年(一八五〇)頃に歌川国芳の門に入ったと記す。年を確定した入門証書が確認されているかのような書き方は避けたい。国芳からつながる武者絵や伝説の主題は重要だが、弟子の仕事を師匠の模倣だけで説明することもできない。フィッツウィリアム美術館は、芳年が国芳にも見られる題材を繰り返しながら、人物の心理や事件の前後の一瞬に独自の力を与えたと述べる。これは、同じ物語を選んでも画面の時点を変えられるという見方につながる。 [1] [2]
メトロポリタン美術館所蔵の《末広五十三次》の一図(一八六五年頃)では、武者の近くを蒸気船が通る。武者と近代の交通機関を一枚の画面に置いたこの作例は、「明治になって初めて新しいものを描いた」という単純な物語を崩す。船は歴史的な物語の形式の中に現れ、画面を見る者に、見慣れた旅の図と新しい機械との関係を考えさせる。ただし作品が描く港や具体的な目撃体験は、この所蔵記録だけから断定できない。 [8]

慶応二年(一八六六)には、国芳門下の落合芳幾と《英名二十八衆句》を共作した。国立国会図書館は、この無惨絵の連作で芳年が人気絵師となったと記す。太田記念美術館の芳幾展は、二人が十四図ずつを担当したと明記する。全二十八図を芳年一人の制作として数えたり、血の多い図柄を個人的な嗜好の直接的な記録として扱ったりすれば、版元、物語、詞書、販売の文脈を見失う。個々の図については、題名、絵師の署名と摺りを確認してから論じる必要がある。 [1] [26]
一八六七年の所蔵作品を並べると、芳年の関心が一方向に移ったわけではないと分かる。メトロポリタン美術館は《幡随院長兵衛》を同年十月、《生田の森の梅花》を同年の三枚続として記録する。歴史や芝居に関わる人物を扱う仕事は、蒸気船のような新しい題材が登場しても続いた。大きな三枚続は人物と場面を広げられるのに対し、一枚物は姿や身振りに視線を集中させられる。作品の選択は、時代の変化だけでなく、絵を求める読者と版元の企画によっても左右された。 [9] [10]


高輪の蒸気車――同じ図柄でも日付を確認する
《東京名勝高輪蒸気車鉄道之全図》では、蒸気機関車、乗客、道や周囲の人々が三枚続の中に収まる。新しい交通の見世物としての魅力だけでなく、画面を横に走る車体と斜めに交わる橋や高台を見ると、芳年が大判の広がりをどう使ったかが分かる。鉄道の機械的細部をすべて正確に伝える技術図ではない。刊行された錦絵として、見る人にどんな「東京の名勝」を示すかが問題なのである。 [11] [12]
この作品には日付上の注意がある。国立国会図書館の書誌は山城屋甚兵衛による明治四年(一八七一)の刊行とし、Tokyo Museum Collection の別個体の記録も一八七一年九月とする。一方、このページに掲載するメトロポリタン美術館の三枚続は一八七二年と記録されている。現段階でどちらか一方を消して合わせる理由はない。図柄の制作、初版、個々の摺り、館ごとの年代判断をさらに比較すべき問題である。図版のキャプションには「当館所蔵品の年」と「日本の書誌にある刊行年」を区別して示す。 [11] [12] [13]

新聞と時事を描く
維新後の仕事について、国立国会図書館は『郵便報知新聞』『絵入自由新聞』『やまと新聞』などの挿絵を挙げる。新聞の絵は、昔から知られた伝説を描く絵とは違う時間の感覚を読者に求める。出来事が現在に近く、日々の報道や読者の関心の中で理解されるからだ。しかし「時事を描いた」ことと「絵師がその現場を直接見た」ことは同じではない。作品ごとに新聞名、掲載日、版元、絵の形態を確かめれば、芳年と新しいメディアとの関係を具体的に示せる。 [1] [14]
一八七七年九月の《警視隊の一行が飲食のもてなしを受ける》というメトロポリタン美術館所蔵の二枚続は、集団の出来事を扱う実例である。同年の西南戦争を扱った別の芳年作品も大英博物館の展覧会資料に記録される。ただし両者は同じ作品ではないし、個々の絵が芳年の政治的立場をそのまま表すともいえない。物語絵で培われた劇的な構図が、同時代の出来事にも向けられたことを、所蔵品に即して考えたい。 [15] [16]

女性を描く――時刻と「相」
一八八〇年の《新橋柳橋二十四時》の一図をメトロポリタン美術館は「正午」と記録している。一人の女性を縦長の画面で示す方法は、戦場や鉄道の三枚続とは別の見方を誘う。時刻が連作の枠組みになることで、表情、衣服、身の回りの物を細かく読める。フィッツウィリアム美術館には同じ連作の「午後一時」の下絵が残り、赤い下描きに重ねた墨線など制作過程を示す。ただし、その下絵はここに掲げる「正午」の完成図そのものの下絵ではない。二つの時間を取り違えて、架空の制作前後比較をつくらないことが大切である。 [17] [18]

《風俗三十二相》の刊行時期について、神奈川県立歴史博物館は明治二十年十一月から翌二十一年十一月までとする。三十二の図に目録を加えると三十三枚という、展示・所蔵を考える際に重要な数え方も示している。太田記念美術館は、異なる立場や職業の女性の姿を取り上げた連作として紹介する。題名にある「相」は表情や様子を読む入口になるが、描かれた女性を現代の読者が勝手に診断するための札ではない。服装、道具、視線、添えられた言葉の組合せから、その像がどのように作られているかを考えたい。 [3] [5]
メトロポリタン美術館の《めがさめさう 弘化年間娘の風俗》に当たる作品は一八八八年の摺りである。題名の「弘化年間」は描かれた人物の時代設定であり、一八八八年という刊行年の代わりではない。口や手の動きは、目を覚ます一瞬を生き生きと伝える。太田記念美術館の日本語作品名が残す「さう」の表記は、原題の一部として尊重すべきだ。メトロポリタン美術館の一八八八年《猫をからかう》は親しみやすい別の女性像だが、館の個別記録が連作名を示さない限り《風俗三十二相》へ入れない。 [19] [20] [5]


《月百姿》――百の月と百の物語
《月百姿》は芳年の代表的な連作だが、「月の景色を百回描いた」という説明では足りない。国立国会図書館の画像資料では、日本や中国の物語、歴史、伝説、人物などに月が結びつく。月は場面の時刻を知らせ、人物の行動を照らし、知られた逸話へ視線を導く。百図を一つずつ並べるだけでなく、故事の出典、月が画面で果たす役割、個々の刊行年を比べれば、連作の豊かさが分かる。国会図書館の画像資料はこの専用ページの重要な入口になる。 [21]
シリーズ全体の期間には、資料間の表現差がある。フィッツウィリアム美術館は秋山武右衛門を版元として一八八五~九二年を掲げ、太田記念美術館の概説には一八八五~九一年という範囲がある。一方、同館の二〇二四年展の作品リストには一八九二年四月に出た一図が載る。全百図の一つの終年を無条件に採用するより、各図の制作・摺刷・刊行を分けて記録すべきである。ここに掲げるメトロポリタン美術館の《煙中月》は、一八八六年二月という個別の記録をもつ。 [22] [23] [7]
《煙中月》では、淡い月だけでなく火と煙、纏を持つ人物が画面を動かす。フィッツウィリアム美術館は、同館の別の摺りについて彫師や摺刷の効果を詳しく説明する。その解説は図柄を読む助けになるが、用紙や顔料の残り方まで二つの所蔵品で同じと決めることはできない。このページの図版とキャプションは、あくまでメトロポリタン美術館の 2007.49.310 に対応させる。版画は一つの「画像」ではなく、複数の現物として伝わるからである。 [24] [7]
妖怪と伝承の描き方
一八八五年の三枚続《不動明王・祐天上人図》では、超自然の出来事が三枚の紙面に広がる。メトロポリタン美術館の解説は、増上寺の祐天が修行僧のころ不動明王の加護を祈り、夢の中で尊像に迫られるという伝承を紹介する。作品を単に「おどろおどろしい絵」と見るより、登場人物の位置、剣の方向、三枚のつながりから、祈願と試練の物語がどのように演出されるかを読みたい。 [25]

晩年の《新形三十六怪撰》は、佐々木豊吉によって一八八九~九二年に刊行された。フィッツウィリアム美術館は、題名の「怪」が、亡霊だけでなく奇異な出来事や存在を含むことを示す。また後期の図に門人の助力があり、芳年の没後に三図が出たとする。シリーズページでは、各図の作者表示、下絵の状態、刊行年を個別に確認する必要がある。「芳年作」と一括しても、その制作経過まで全図同じとは限らない。 [6]
下絵、彫り、摺りを分けて見る
浮世絵の名前欄に「月岡芳年」と書かれていても、一枚の錦絵は一人で完成させたものではない。絵師の下絵を版元が企画として世に出し、彫師が線を版木へ移し、摺師が紙に色を重ねる。フィッツウィリアム美術館は、空摺、布目摺、ぼかし、雲母、艶のある黒など、後期の優れた摺りに見られる技法を解説する。印刷の具合で一枚ごとに表情が変わり得るため、画面の色や質感を論じるときは掲載したその摺りを観察しなければならない。 [4]
太田記念美術館は、かつて門人の水野年方が所蔵した芳年の下絵が見つかったことを報告している。完成図と下絵を比べれば、線や人物配置を考える過程が見える。下絵が年方の手を経て伝わったことは、師弟の関係を作品の保存という面から考える手掛かりにもなる。一枚の完成図の裏には、構図の選択と、版木へ移される前の描き直しがあった。 [5]
よくある質問
読者との対話
作品名と所蔵番号を手がかりに、芳年の異なる時期の錦絵を比べてみてください。
鑑賞の手がかり
美術館の所蔵品を比べると、色や摺りにどんな違いが見えますか。
高輪の鉄道は三枚の紙面をどのように使っていますか。
《煙中月》では月と消防の人物のどちらに最初に目が向きますか。
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参考資料
- 国立国会図書館「月岡芳年」。生没年、国芳門下、芳幾との共作、新聞、門人。
- フィッツウィリアム美術館「About Tsukioka Yoshitoshi」。国芳との関係と幕末・明治の活動。
- 神奈川県立歴史博物館「風俗三十二相」。連作の刊行年と枚数。
- フィッツウィリアム美術館「Techniques & Special Effects」。摺刷と摺りごとの差。
- 太田記念美術館「没後120年記念 月岡芳年」。多様な画題と下絵。
- フィッツウィリアム美術館「New Forms of the Thirty-Six Ghosts」。怪の意味、門人、没後刊行。
- メトロポリタン美術館 2007.49.310《月百姿 煙中月》。作品個別記録。
- メトロポリタン美術館 JP3178、《末広五十三次》の蒸気船の図。
- メトロポリタン美術館 2007.49.308《幡随院長兵衛》。
- メトロポリタン美術館 2005.348a–c《生田の森の梅花》。
- メトロポリタン美術館 2007.49.260a–c、高輪の蒸気車。
- 国立国会図書館サーチ《東京名勝高輪蒸気車鉄道之全図》。一八七一年の書誌記録。
- Tokyo Museum Collection《東京名勝高輪蒸気車鉄道之全図》。別個体の年代。
- 大英博物館「Yoshitoshi」作者記録。新聞などの仕事。
- メトロポリタン美術館 JP3387、一八七七年の警視隊図。
- 大英博物館「Samurai」展の大活字ガイド。西南戦争関連の別作例。
- メトロポリタン美術館 2007.49.316、《新橋柳橋二十四時》正午の図。
- フィッツウィリアム美術館、午後一時の図の下絵。正午の図とは別。
- メトロポリタン美術館 2005.349、《めがさめさう》に当たる図。
- メトロポリタン美術館 JP3687b《Teasing the Cat》。連作帰属を推定しない。
- 国立国会図書館「月百姿」画像資料。百図の画題。
- フィッツウィリアム美術館「One Hundred Aspects of the Moon」。版元と広い刊行期間。
- 太田記念美術館「月百姿」展、出品目録。期間の表記と一八九二年刊の作例。
- フィッツウィリアム美術館《煙中月》の別の摺り。技法の解説。
- メトロポリタン美術館 2005.350a–c《不動明王・祐天上人図》。作品と伝承の説明。
- 太田記念美術館「落合芳幾」展。《英名二十八衆句》の二人各十四図という分担。



