幕末から明治へ。武者、蒸気車、新聞、女性、月を描いた芳年の仕事を、現存する錦絵からたどります。

江戸新橋から東京へ
月岡芳年は天保十年(一八三九)に江戸で生まれ、明治二十五年(一八九二)に東京で亡くなった。国立国会図書館が示す誕生日は旧暦三月十七日で、同館は西暦一八三九年四月三十日に換算している。没日は六月九日である。旧暦の日付をそのまま西暦の三月十七日と読み替えると、一人の生涯の最初の記録からずれてしまう。年譜を使うときは、和暦、旧暦の月日、西暦への換算を区別したい。 [1]
芳年が生きた五十三年間には、江戸から東京への改称、幕府から明治政府への転換、新聞や鉄道の登場が重なる。だからといって、彼の絵を「古い浮世絵から新しい近代画へ」という一直線の物語に押し込める必要はない。歴史上の武者を描いたころにも新しい乗り物が画面に入り、新聞の仕事をした後にも故事や伝承に戻った。まずは作品の年と形、関わった人々を並べ、何が同時に行われていたかを見ることが、生涯を理解する近道である。 [2] [3]
ひと目でわかる芳年
- 時代幕末から明治(一八三九~一八九二)
- 師歌川国芳。一八五〇年頃に入門
- 主な形式一枚物、二枚続・三枚続、挿絵、肉筆画
- 代表的な連作《月百姿》《風俗三十二相》《新形三十六怪撰》
目次
本名・通称・号をどう扱うか
芳年の名前は、資料によって記述が一致しない。国立国会図書館は本名を吉岡金三郎、通称を米次郎とし、玉桜楼、一魁斎、大蘇などを別号として挙げる。山梨県立美術館の作者記録は米次郎を本名と説明し、北九州市立美術館は吉岡米次郎とする。三館が同じ一つの形を示しているとはいえない。ここでは国立国会図書館の区分を基準にしつつ、異なる所蔵館の記述を脚注に明記する。戸籍や同時代の署名を比較するまで、どれか一つを確定した「真の名前」として押し通さない。 [1] [5] [6]
一魁斎や大蘇などの号も、制作年を判定する手掛かりとなる。ただし、目の前の一枚にある署名を見ずに「この時期は必ずこの号」と決めるのは危うい。図柄を考えた年と、その版が摺られた年が離れている可能性もある。芳年の生涯を画号の改称だけで章立てするより、年が分かる所蔵品、版元、展覧会目録を合わせた方が、制作の流れをより正確にたどれる。 [1] [7]
出身地について山梨県立美術館は江戸新橋と記し、商家の次男だったとする。また同館は京都の絵師の家系である月岡家の養子となったと説明する。これらは有用な館の略歴だが、今回確認した公開資料だけでは養子縁組の時期や原資料まで追えていない。そのため、東京生まれという国立国会図書館の大枠と、山梨県立美術館のより詳しい説を出典付きで併記するにとどめる。地名を細かく書くほど、その根拠も細かく示す必要がある。 [1] [5]
国芳門下――学んだことと自分の仕事
国立国会図書館によれば、芳年は嘉永三年(一八五〇)頃に歌川国芳の門に入った。山梨県立美術館の記述では十二歳とされる。旧暦・満年齢の数え方もあるので、「一八五〇年の何月何日に入門した」と正確な日付を与えることはできない。国芳の武者絵や戯画は弟子が学ぶ大きな資源だったが、門下に入ることは画題のリストを受け継ぐことだけではなかった。筆の線、人物の身振り、版元に渡す下絵の作り方を学ぶ場でもあったはずだ。具体的な授業の記録がない部分は、制作物から可能性を考えるにとどめたい。 [1] [5]
大英博物館の作家記録は、一八五三年の平家武者を扱う三枚続を「おそらく最初期」の作例とする。しかし、ここで「最初期」と「確実に最初の作品」を混同できない。作品帰属や早い時期の署名について、さらに個別資料を調べる余地がある。重要なのは、十代前半の仕事が歴史物語の世界から始まったとみられる一方、そこから四十年近い活動が一つのジャンルに固定されなかったことである。 [8]
国芳が一八六一年に亡くなると、芳年は師の名声に頼る段階から、絵師として自分の仕事を蓄積する段階へ進んだ。メトロポリタン美術館の一八六五年頃の《末広五十三次》の一図では、武者と蒸気船が同じ画面にある。国芳由来の歴史的な人物像の近くに、新しい交通のしるしが入る。ただしこの場面を芳年自身がどこかで目撃した記録とはいえない。版画は、読者にとって関心のあるものを組み合わせる商業的な画面でもあった。 [9]
大英博物館は同じ一八六五年の仕事として、賤ヶ岳の戦いを描いた長さ約九メートルの祭礼用の幕を挙げる。紙の一枚物と長大な幕では、見る距離、展示される場、注文主も異なる。現物の所蔵と利用可能な図版をまだ確かめられていないため、その見た目を版画から推測して語ることは避ける。しかし、芳年が早くから錦絵だけに限定されない制作を行ったという証拠にはなる。 [8]
芳幾との十四図ずつの共作
慶応二年(一八六六)、芳年は同門の落合芳幾と《英名二十八衆句》を手がけた。太田記念美術館の芳幾展の解説は、二人が十四図ずつ担当したと記す。国立国会図書館は、芳年がこの連作で人気を得たと説明する。両方を合わせると、人気のきっかけを認めながら、一連の作品を芳年だけの「二十八図」と誤って数えずにすむ。芸術家の評伝に一人の名前だけを立てる場合ほど、共同制作者を本文に残すべきである。 [10] [1]
この連作は、歌舞伎や講談の殺害場面を扱った「血みどろ絵」として知られる。強い残酷表現は作品の性格を理解する手掛かりだが、「絵師の心の内をそのまま写した」という証明にはならない。題材となる物語、詞書、版元の企画、競作という仕組みを調べなければ、なぜそれぞれの図がこの形で出たのか分からない。太田記念美術館の展示が芳幾の担当図をまとめて見せた事実は、芳年の側の十四図を考えるときにも、作者表示を丁寧に読む必要を教える。 [10]
一八六七年のメトロポリタン美術館所蔵品には《幡随院長兵衛》と《生田の森の梅花》の三枚続がある。残酷絵によって知られる一方で、芝居や歴史的な人物、複数の紙面にまたがる場面づくりも続けていた。ある年の代表作を一つだけ抜き出し、次の年には別の主題に「転向した」と書くのでは、こうした並行作業が見えなくなる。二つの作品の刊行情報は別々に確認し、同じ一八六七年に存在した形式の違いとして見る。 [11] [12]


明治維新と仕事の変化
明治維新の前後、芳年は武将の姿に同時代の戦いを重ねて見ることのできる画題も描いた。太田記念美術館は《魁題百撰相》について、戦国の武将に上野戦争の彰義隊を重ねたシリーズと説明する。神奈川県立歴史博物館も、同館所蔵の一図に明治元年(一八六八)の戊辰戦争の人々が映るとする。このように特定の連作について複数の美術館が文脈を示すときは、歴史的な故事が同時代の読者にどう響いたかを具体的に考えられる。一方、その読みを芳年の歴史画すべてへ無条件に広げることはできない。 [13] [14]
鉄道を描いた高輪の三枚続は、目に見える新しい都市の姿を作品と年代の両面から考えられる。国立国会図書館の《東京名勝高輪蒸気車鉄道之全図》の書誌と Tokyo Museum Collection の別の所蔵品は一八七一年を示す。掲載するメトロポリタン美術館の三枚続には一八七二年という年代が付く。この違いが初刊・別摺・所蔵館の判断のどれに由来するかは、現段階の資料だけでは決められない。評伝では「一八七一年に描いたのち一八七二年に摺り直した」といった整いすぎた説明を作らず、記録ごとに年を示す。 [15] [16] [17]

一八七二~七三年については、大英博物館とフィッツウィリアム美術館の略歴が病気や仕事の減少を記している。フィッツウィリアム美術館は鬱の時期として説明するが、今回確認したものは近年の美術館による回顧的な叙述であり、当時の診療記録ではない。どの作品が病状の直接的な結果かを、この情報だけで判定することはできない。またこの期間を「完全に制作を中断した」と言い切ることも、高輪の所蔵記録などと両立しない。困難な時期であったことと、そこで起きた出来事の細部がなお不明なことを両方書く。 [8] [2] [15]
新聞錦絵と明治の読者
国立国会図書館は、維新後に芳年が『郵便報知新聞』『絵入自由新聞』『やまと新聞』などの挿絵を手がけたとまとめる。北九州市立美術館の略歴は一八七五年に『郵便報知新聞』へ入ったと記し、所蔵品一覧に同年の号数付きの作品を二点掲げる。これは「一八七五年にはこの仕事があった」と示す強い足場になる。ただしその事実から、すべての新聞仕事の開始日や契約内容まで推定しない。新聞の名と、そこから独立して売られた錦絵の名も分ける必要がある。 [1] [6]
山梨県立美術館の作品一覧には、一八七四年の《競勢酔虎伝 窪田萬治》や《甲州勝沼駅於近藤勇驍勇之図》、一八七六年の《古今姫鑑 紫式部》が載る。新聞という新しい媒体へ関わりながら、武者、同時代の人物、古典文学の人物を描く仕事も並行していたことが、年代のある所蔵品から確認できる。芳年を「新聞に転じた絵師」と一言で表せない理由はここにもある。作品名と日付を並べると、特定の媒体だけでは見えない仕事の重なりが年譜に現れる。 [5]
一八七七年九月、メトロポリタン美術館が所蔵する警視隊の一行の二枚続は、時事を描く芳年の仕事を物として確かめる資料である。大英博物館の展覧会ガイドには同じ西南戦争に関わる別の図が載る。二点は同じものではない。戦争を題材にしたからといって、絵師が現場にいた、あるいは特定の政治的立場を公にしたと断定することもできない。図柄、文字、発行された時期を合わせて初めて、事件と作品との距離を測れる。 [18] [19]

一八八〇年代――連作と人気
《新橋柳橋二十四時》の正午の図は一八八〇年のメトロポリタン美術館の所蔵品である。同じ連作の午後一時の図について、フィッツウィリアム美術館には墨線と赤い下描きの残る下絵がある。二つは別の時刻であり、「この下絵からこの正午の図が完成した」とは示せない。むしろ連作という企画の中で、日常の時間と人物を複数の絵に分けて考えたこと、絵師の下絵が彫りと摺りに先立つ独立した制作段階であることを示す。 [20] [21]

山梨県立美術館は、一八八五年の人気絵師の番付『東京流行細見記』で芳年が首席だったと記す。北九州市立美術館も当時の番付で一位になったとする。美術館の略歴によるこの順位は、晩年の仕事が市場で認められていたことを考える手掛かりである。ただし番付一つから「日本全体で最も売れた」「すべての分野で最高の評価を得た」とまで広げられない。誰がどの地域で番付を作り、何を基準にしたかは原本の調査を要する。 [5] [6]
秋山武右衛門を版元とする《月百姿》は、数年にわたって出た百図の連作である。フィッツウィリアム美術館は一八八五~九二年、太田記念美術館の概説は一八八五~九一年という範囲を用いる。同館の後年の作品リストには一八九二年四月に刊行された図もあり、初めに描いた年と後に刊行された年が異なる場合を示唆する。芳年の晩年にひと月で百図が完成したかのような書き方は避ける。月の形を反復するだけの仕事ではなく、日本・中国の故事や都市の職業を異なる図として積み重ねる長期の企画だった。 [22] [23] [24]
メトロポリタン美術館の《月百姿 煙中月》は一八八六年二月の個別の摺りである。火の前の人物と月が同じ画面にあるが、ここから芳年が現場の火事を目撃したと断定できない。フィッツウィリアム美術館は別の摺りについて彫師や顔料を説明する。版画の「作品」は一つの図柄であると同時に、物質的に異なる複数の紙として残る。人の生涯を作品でたどるときも、制作年、刊行年、現存する摺りの状態を一つに混ぜないことが重要である。 [4] [25]
女性像、怪異、門人
晩年の《風俗三十二相》は明治二十年十一月から翌年十一月にかけて出た。神奈川県立歴史博物館によれば、女性を描いた三十二図に目録を加えると三十三枚になる。作品に「弘化年間」の女性と記されていても、その女性の時代設定と、錦絵が明治に刊行された日付は別である。メトロポリタン美術館の一八八八年の「めがさめさう」に当たる一枚は、起床の瞬間を口元や手に表す。評伝にとっては、芳年が晩年にも戦いや妖怪に限られない題材を続けた証拠となる。 [26] [27]


佐々木豊吉を版元とする《新形三十六怪撰》は一八八九~九二年の連作である。フィッツウィリアム美術館は、題名の「怪」を亡霊だけに狭めず、奇異な存在や出来事も含むと解説する。後期の図には門人の協力があり、三図は芳年の死後に出たとも記す。北九州市立美術館の所蔵品一覧は、連作の制作・刊行年を一八八九~九二年と分けて示す。これらの記録は、人気の晩年作品をすべて「本人が完成して生前に見届けた図」と扱えないことを示している。 [29] [6]

国立国会図書館は芳年の門人として山中古洞と水野年方を挙げる。太田記念美術館は、年方が旧蔵した芳年の下絵を発見・展示したと報告する。門人の名をただ並べるより、下絵がどのように保存され、次世代に渡ったかを見ると、制作の継承が具体的になる。北九州市立美術館の「門人は八十名を越える」という記述もあるが、今回確認した公開資料ではその人数の名簿までは見ていない。確定した師弟関係と、後世の大きな人数の評価を混同しない。 [1] [13] [6]
死後にも残る制作の問題
芳年は明治二十五年六月九日に亡くなった。作品の制作をその日で切り、続く版行まで全部を生前の活動として書くことはできない。《新形三十六怪撰》の三図のように没後刊行の例があるからだ。いっぽう、門人や版元の活動が続いたことから、芳年の死を「浮世絵の終わり」と断定することもできない。彼の生涯の終点と、版木・下絵・弟子がたどったその後の時間を区別すると、作品の歴史がより正確になる。 [1] [29]
この評伝の軸は、「最後の巨匠」の伝説を強めることではない。近くの師や競作相手、新聞の版元、彫師と摺師、晩年の連作を進めた版元、下絵を受け継いだ弟子を、確認できる記録へ戻すことである。武者と蒸気船を並べた早い一枚から、消防の人物と月を合わせた晩年の一枚まで、芳年は過去の物語と変化する都市をともに版画の題材にした。所蔵番号と年代が分かる作品を順に見れば、その歩みは一つの流行語よりもはるかに豊かに見える。 [9] [4]
よくある質問
国立国会図書館は吉岡金三郎を本名、米次郎を通称とする。一方、山梨県立美術館は米次郎、北九州市立美術館は吉岡米次郎を本名として掲げる。今回の資料では一致しないため、出典を示して併記する。 [1] [5] [6]
国立国会図書館の記述では嘉永三年(一八五〇)頃。「頃」を除いて正確な日や月を指定しない。 [1]
いいえ。太田記念美術館は落合芳幾と芳年が各十四図を担当したと説明する。個々の図では署名と所蔵記録も確かめたい。 [10]
大英博物館とフィッツウィリアム美術館は一八七〇年代前半の病気や仕事の減少に触れるが、「完全に制作を中断した」とは記せない。現時点では回顧的な館の叙述であり、個別の医療記録は確認していない。 [8] [2]
読者との対話
作品名と所蔵番号を手がかりに、芳年の異なる時期の錦絵を比べてみてください。
鑑賞の手がかり
美術館の所蔵品を比べると、色や摺りにどんな違いが見えますか。
高輪の鉄道は三枚の紙面をどのように使っていますか。
《煙中月》では月と消防の人物のどちらに最初に目が向きますか。
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参考資料
- 国立国会図書館「月岡芳年」。生没年、名前、国芳門下、新聞、門人。
- フィッツウィリアム美術館「About Tsukioka Yoshitoshi」。幕末・明治の活動と病気の記述。
- 太田記念美術館「没後120年記念 月岡芳年」。画業を通した展覧会。
- メトロポリタン美術館 2007.49.310《月百姿 煙中月》。
- 山梨県立美術館、月岡芳年作者記録。別名、出身地、1885年の番付。
- 北九州市立美術館、月岡芳年作家記録。別名、新聞作品、門人についての記述。
- フィッツウィリアム美術館「Techniques & Special Effects」。摺りと制作工程。
- 大英博物館、芳年の作家記録。初期作品、祭礼幕、病気、新聞の仕事。
- メトロポリタン美術館 JP3178、蒸気船を描いた《末広五十三次》の一図。
- 太田記念美術館「落合芳幾」。二人各十四図の分担と連作の画題。
- メトロポリタン美術館 2007.49.308、幡随院長兵衛の図。
- メトロポリタン美術館 2005.348a–c、生田の森の三枚続。
- 太田記念美術館「没後120年記念 月岡芳年」。《魁題百撰相》と下絵。
- 神奈川県立歴史博物館「芳年が描いたかながわとゆかりの人物」。《魁題百撰相》の時代背景。
- メトロポリタン美術館 2007.49.260a–c、高輪の蒸気車。
- 国立国会図書館サーチ《東京名勝高輪蒸気車鉄道之全図》。1871年の書誌。
- Tokyo Museum Collection、高輪の蒸気車の別個体。1871年9月の記録。
- メトロポリタン美術館 JP3387、1877年の警視隊の図。
- 大英博物館「Samurai」展ガイド。西南戦争の別作例。
- メトロポリタン美術館 2007.49.316、《新橋柳橋二十四時》正午の図。
- フィッツウィリアム美術館、午後一時の図の下絵。
- フィッツウィリアム美術館「One Hundred Aspects of the Moon」。版元と刊行期間。
- 太田記念美術館「月百姿」展、作品リスト。年代を比較する資料。
- 国立国会図書館「月百姿」画像資料。連作の画題。
- フィッツウィリアム美術館《煙中月》の別の摺り。彫師と技法。
- 神奈川県立歴史博物館「風俗三十二相」。刊行年と枚数。
- メトロポリタン美術館 2005.349、《めがさめさう》の一図。
- メトロポリタン美術館 JP3687b、猫と女性の図。
- フィッツウィリアム美術館「New Forms of the Thirty-Six Ghosts」。版元、門人、没後刊行。
- メトロポリタン美術館 2005.350a–c、《不動明王・祐天上人図》。



